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謙信の肖像


 越後の飛龍と称される上杉謙信は、武田信玄と並び戦国期屈指の名将と語り伝えられているが、実像の謙信は弱肉強食の乱世に覇を競うにはあまりに不向きな人物であったようだ。
 謙信には十八歳も年の違う兄があり、謙信七歳の天文六年(1537)父為景が 越後擾乱の最中に没した跡は兄が家督を継ぎ、謙信は学僧たるべく寺に入っている。以後、十四歳までの七年間、謙信は厳しい禅修行に打ち込んだ。ところが、兄の晴景が病弱のうえに武将としての器量に欠けるところがあったために、国人衆がしきりに謀叛を起こし出した。そこで、謙信は兄の名代として、静かな禅林生活から戦国動乱の渦中へ、否応なく引っぱり出されることとなるのである。


真面目人間、謙信

 謙信は、のちに信玄が勝頼に「謙信は頼むといえば、決して断わるようなことをせず、きっと力を貸してくれる」と遺言しているように、頼まれればいやと言えない義理固さというか、あまりにも性格が律儀すぎた。ゆえに、長尾一族の担ぎだしを拒むことができず、おのれに不向きな戦国大名という、いわば間違った道を歩まねばならず、そのため生涯を不本意で自己撞着に満ちた日々を過ごすこととなるのであった。
 七歳から十四歳という人間形成の根幹をなすべき時期を仏門で厳しく鍛えられたせいであろう、謙信は人一倍神仏を敬う念が強く、春日山城の北側に毘沙門丸を築き、そこに毘沙門天、諏訪、護摩を祀る三つの堂をたて、軍旗にも「毘」の字を用いるほどこれを深く崇敬した。
 謙信の一生は、文字どおり合戦に明け暮れた。しかし、その間、家臣の内紛に手を焼き、突如として出家隠退を声明した。弘治二年(1556)二十七歳のときであったが、これは家臣一同が協力一致して忠誠を誓う連署の誓紙を差し出すことで、謙信は出家を思い止まっている。これを謙信の大芝居だと見る向きもあるが、謙信は戦国武将としての生活を決して納得して過ごしていなかったことの証、ととった方が自然ではないだろうか。


酒豪、謙信

 謙信が大酒呑みであたことはよく知られている。越後という寒い雪国暮らしのせいというだけではなく、終生もちつづけた宗教的信条とそれに相反する合戦に明け暮れする現実との矛盾を、酒で紛らしていたのではないだろうか。さきに記したように大決心した念願の出家遁世も遮られてしまい、いかに正義の戦いとはいっても、殺生戒を犯す後ろめたさは酒でも呑まなければ、律儀で純粋な謙信としてはやりきれなかったのだろう。
 しかし、この大酒が謙信の人生を縮めることとなった。信玄の死後数年にして、北は出羽、南は上野、西は加賀と勢力圏を拡大し、織田信長の勢力とぶつかり、天正九年九月、信長軍と戦いこれを撃破し、一躍、天下人の有力候補にのし上がった。この勝ち戦で、謙信は信長の力量を侮り、上洛をあとまわしにして関東平定に乗り出す。ここでも関東管領という虚名に忠実たらんとして、みすみす上洛の好機を逸したのである。そして、関東への進発の直前に脳溢血で倒れ、不帰の人となってしまった。
 謙信は持ってうまれた律儀な性格と、幼少期に植え付けられた信仰心にわざわいされて、武将としては類稀な器量を持ちながらも、ついにローカルな武将に終わった。謙信がもし僧門生活を送っていたならば、おそらく当代きっての名僧知識になりえたであろう。それは、いみじくもかれの不本意な生涯があかしていよう。
 ここに紹介した「上杉謙信像」は上杉神社所蔵のもので、法体姿の謙信像である。謙信の一生をこの画像から思い描くと、人生がいかにも不自由で、不可解なものであることかを理解できるような気がしてくるのは小生だけだろうか。
  

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