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柳ヶ瀬氏
不詳
(古代豪族平群氏後裔)


 神亀元年(724)九月、近江国伊香郡乃弥山に住む大蛇を退治せよとの勅命が、大和国平群郡椿井荘の住人椿井右中将懐房に下された。八幡大菩薩の神劒一振りを賜り、二羽の白鷲に導かれ、乃弥山に来て大蛇を退治した懐房は、この地を開発して五筒荘村と名づけみずからの領地としたのである。 大蛇や神劒を埋めたといわれる蛇塚は今も椿坂の中央にあり、塚の上には椿の古木が一本植えられている。椿井懐房は興福寺官務宗徒でもあり、役職のこともあってその後、大和に帰っていった。
 椿井氏は「平群氏春日神社沿革記」によれば、大和国平群を支配した古代豪族平群氏の後裔という。天武天皇(大海人皇子)に仕えた平群直隅(余呉町誌では大蔵直広隅)は、壬申の乱が起ると出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願した。戦後、軍功により鈴鹿の関を拝領し、椿井を以て称号となしたと伝えられる。神護景雲2年(768)正月、大和官領職越前懐泰は河内枚岡より三笠山へ臨幸する春日大明神に供奉して、初代の興福寺官務宗徒になつた。十六代の右中将懐房は藤原房前の養子となり、藤原の平群と称するようになったという。しかし、この右中将懐房と大蛇を退治した右中将懐房との間には二百年以上の年代差があり、いずれも伝承の域を出ないものというしかない。

椿井氏の北近江への土着

 さて、長徳三年 (997) に至り、椿井氏四十四代という椿井少将懐職の二男常陸懐康が、旧領近江国伊香郡五箇荘村に移住してきた。かくして、懐康の子孫代々がここに永住することになったのであった。
 移住した懐康は村名を郷里大和椿井の名をとり椿井村と改めると、元祖正一位椿井大明神を勧請して椿井神社 (椿神社)、郷里の椿井寺の分院として椿井寺を建立した。 このことは、奈良興福寺の官務牒疏 (かんむちょうそ) 「近江国伊香郡の条」 にも次のように記されている

一.椿井村 椿井寺
   鎮守 椿井大明神
      並 三処神

 懐康以来、椿井氏は椿坂に住して椿井(椿坂) 一帯を領し、やがて北近江守護佐々木京極家に仕えた。応仁から文明 (1467〜86) のころ、懐康より十四代目の椿井丹後守秀行は柳ヶ瀬山に城郭を築き、椿井(椿坂)、柳ヶ瀬を支配した。当時、京極氏は内紛により高清と政経も二派に分かれて激しい戦いが繰り返され、秀行は延徳元年(1489) 7月22日に行われた菅山寺付近の戦いで討ち死にした。しかし、秀行がどちら方に味方し どこで戦死したかはあきらかではない。
 秀行には後継者がなかったため、椿井氏は一旦断絶してしまった。その後、山城国相楽郡上狛庄に住む椿井本家の播磨守澄政の二男椿井縫殿助行政が柳ヶ瀬に来て椿井氏を再興した。行政のあと、権太夫政寔(まさこれ) 、弥兵衛政■(まさとう) 、弥兵衛政美と続き、政寔の頃から本家弥兵衛、分家三太夫に分かれた。以後、両家共、弥兵衛、三太夫を襲名し、江戸時代においては彦根藩の藩士として三人扶持二十五石宛を与えられ、明治維新に至った。
 ところで、出家した柳ヶ瀬氏の女性妙誓院禅定尼が柳ヶ瀬家の菩提寺として建立した栄昌庵の過去帳には、秀行以後は全て椿井でなく柳ヶ瀬に姓が改められている。このことから、椿井氏が柳ヶ瀬を名乗るようになったのは、秀行の時からであったようだ。また、江戸時代後期の文化三年(1806) 、山城の椿井権之助政隆から柳ヶ瀬三太夫にきた書面に「同苗柳瀬三太夫殿」と記されていることから、柳ヶ瀬氏になった後も椿井氏と同族としての往来が続いていたことが知られる。

柳ヶ瀬を歩く

柳ヶ瀬の地は、近江国の最北端にあたるところである。旧街道を歩くと柳ヶ瀬関所跡の碑が建立され、柳ヶ瀬氏の屋敷の長屋門が鈴木家の門として残っている。集落の北のはずれには、「右えちぜんかヽのと、左つるが」と刻まれた道標が立っている。さらに、柳ヶ瀬氏の菩提寺であった栄昌庵が国道脇の高台に佇んでいるが柳ヶ瀬の地も過疎の波に洗われているのであろう、総じて寂れた風情である。柳ヶ瀬をあとにさらに北の椿坂をめざす、柳ヶ瀬氏の祖椿井氏が入部したという地だが、まだ、春遠い北国を感じさせるところであった。


柳ヶ瀬氏の終焉

 柳ヶ瀬の地は北国街道の宿場町として近世には関所が置かれ、柳ヶ瀬氏が関所の関守を世襲した。しかし、明治維新を迎えると関守職は廃され、柳ヶ瀬氏は柳ヶ瀬を離れ他に移住していった。ここに平安期に端を発し、椿井氏、柳ヶ瀬氏と名を変えながらも、代々、柳ヶ瀬に続いた柳ヶ瀬氏の歴史は幕を閉じたのである。
 かつての柳瀬三太夫家の門が今も柳ヶ瀬の鈴木家の門として残っており、往時の柳ヶ瀬氏の権威の一端をいまに伝えている。

参考資料:余呉町史/伊香郡志 ほか】



■参考略系図
 


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