東野氏
鷺(さぎ)
(清和源氏佐竹氏流)
・鷺紋の実形は不明。犬上郡
豊郷町に鎮座する白鳥神社
の神紋「鷺」を仮に掲載。
|
|
戦国時代、北近江の伊香郡東野で活動していた東野氏*
鷺紋の実形は不明。犬上郡
豊郷町に鎮座する白鳥神社
の神紋「鷺」を仮に掲載。は、『太右衛門氏所蔵系図』よれば、清和源氏源為義十三世の孫佐竹行重が祖だといわれている。 一方、東野左京家に伝わる『東野家来歴書』では、南北朝時代はじめの「東野周防守行一が祖となっている。東野家の系図に関しては、数本のものが現在に伝わっていて、いずれが真実を伝えたものか判断が難しい状態である。
東野氏のはじめに関して『太右衛門氏所蔵系図』では、代々常陸国の領主であった佐竹氏の一族である行重が近江伊香郡東野に封じられ、正五位下東野豊前守に任ぜらた。ところが、常陸の小山の合戦で信頼していた兄佐竹義昭が討死したとの報に接した行重は、世をはかなみ叡山に入り出家した。しかし、家門が没落することを憂い、ふたたび東野に帰り三千貫を領して東野氏の祖になったということになる。
一方の『東野家来歴書』によれば、東野氏初代の周防守行一は東野西方の山腹(現在行市山と呼ばれる)に城を築いて本拠とした。そして、行一のあと行広、行宗と続き、行宗は道義入道と称して堂木山の城を築きあらたな本拠とした。かくして東野氏は余呉の南方に拠点を築き、京極氏の有力家臣として知られる存在となったのである。道義入道の孫が左馬助行重(行成とも)で、『太右衛門氏所蔵系図』でいう佐竹行重と同一陣部なのかも知れない。
近江守護職は佐々木氏が世襲し、室町時代には北近江を佐々木京極氏が守護として治め、南近江を佐々木六角氏が守護として治めていた。応仁の乱が勃発すると、京極氏と六角氏は東西に分かれて互いに争うようになり、東野氏ら北近江の小領主は京極氏に仕え、各地の戦いに出陣するようになった。東野氏は東野の東方東野山に城を築き、本拠として乱世に身を置いたのである。
戦乱を生きる
東野氏の系図をみると、赤尾氏、浅見氏ら北近江に割拠した領主との関係が記されており、その真偽はともかくとして東野氏が北近江に一定の勢力を築いていたことがうかがわれる。また、左馬助行重の嫡男周防守(左馬助)行信は京極氏から余呉庄の地頭に任じられ、余呉庄の惣政所である東蔵春将と連署した文書が伝わっている。永正七年(1510)、京極高清が六角氏綱と鳥居本で戦ったとき、東野行信は磯野員吉・井口宮内らとともに京極方として出陣、戦功を賞されている。その後も、京極氏に従って各地を転戦、一族から多くの戦死者を出している。
やがて、京極氏に家督をめぐる内訌が起り、その間隙をついた浅井亮政が北近江の実力者にのしあがった。行信は亮政に従うようになり、浅井氏が勢力を拡大するとともに東野氏も全盛時代を迎えるにいたった。やがて永禄十一年(1568)、織田信長の上洛により時代は新たな局面を迎えた。信長の妹お市を室に迎え同盟関係にある浅井長政は、六角氏の没落を後目に北近江の戦国大名に成長した。しかし、元亀元年(1570)の織田信長の朝倉攻めをきっかけとして、長政は朝倉氏と結んで信長と対立関係となった。そして、姉川の合戦に敗れ、天正元年(1573)織田軍の攻撃の前に小谷城は陥落し浅井氏は滅亡した。『東浅井郡志』によれば、東野氏は小谷城に籠城し、東野左馬助政行は浅井久政の自害を助けたという。左馬助政行は左馬助行信のことと思われ、東野氏は浅井氏に最期まで忠節を貫いたのである。
|
.
長浜市東野にある東野氏の居館跡、土塁と思われる遺構が確認でき、壕跡かと思われる水路が流れている。まことに静かなところで、居館の鬼門と思われるところに愛宕神社が祀られている。居館をあとにもうひとつの東野、余呉町東野に向う。八幡神社境内横の高台に「東野豊前守の墓」が立っており、周囲を見回すと曲輪跡を思わせる地形である。長浜と余呉、随分と離れたところに東野氏の遺跡が残っているのは、まことに不自然さを感じさせる。おそらく、東野氏は余呉系と長浜系の二つの流れがあったのではないだろうか。そう思うと、東野氏に対するさまざまな疑問が解けてくるのだが・・・。
|
|
浅井氏が滅亡したのち、東野氏も逼塞を余儀なくされたようだ。行信の嫡男左京進秀行は京に出て医術を学び、のちに中之郷において医を開業したと系図に記されている。秀行の長男左京進行是は丹羽氏に仕えて千二百石を知行したが、のちに浪人して中之郷に帰ると父のあとを継いだ。二男の右近は、天正十三年(1583)長浜城主となった山内一豊に召し抱えられ三百石を与えられた。その後、左馬助と名乗った行信は、山氏一豊が出世するとともに身代を増やしていった。
慶長五年(1600)、天下分けめの関ヶ原の合戦における功によって、山内一豊は土佐一国の太守に大出世した。一豊に従って土佐に移った行信は七千石を与えられ、伊予守を名乗って山内氏の重臣のひとりとなった。以後、行信の子孫は土佐藩士として続き、明治維新を迎えたという。一方、行是の子孫は中の郷に住して、代々、医業をもって子孫相継いだと伝えられている。北近江に発祥した東野一族は、浅井氏の滅亡をきっかけとして日本各地に散らばり、その多くが「鷺」を家紋に用いているという。
*
:東野は江州余呉では「ひがしの」とよまれている。
【参考資料:余呉町史/伊香郡志 ほか】
■参考略系図
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
|