|
小畠氏
●柏車/蝶
●清原氏流
小畠氏の家紋は『園部藩分限帳』に「蝶・柏車」とあり、系図の傍注にも「蝶」を賜ったと記されている。
|
|
戦国時代の丹波国では、船井郡の内藤氏、多紀郡の波多野氏、氷上郡の赤井氏を三大勢力として、多くの国人が割拠していた。そのような国人領主のひとりに、本梅川沿い宍人集落の小山にある宍人城に拠った小畠氏がいた。
系図などによれば、小畠氏は後三年の役で源義家に滅ぼされた清原武衡の後裔となっている。すなわち、奥州を逃れた武衡の子武国が丹波に至り、小畠八郎を称したことに始まるのだという。そして、武国のあとは弟の武通が継ぎ、子孫相継いで戦国時代に至ったというのである。小畠氏の系図は『姓氏家系大辞典』『系図綜覧』に収録され、両者の内容は一致している。また、江戸時代に園部藩小出氏に仕えた小畠氏は、「本国出羽」としてみずからの故地を奥州出羽国に求めている。
小畠氏の軌跡
小畠氏の所伝の真偽はともかくとして、北野天満宮の荘園である船井荘の荘官として丹波に勢力を培っていったようだ。『小畠文書』によると、応仁の乱後の長享二年(1488)に細川氏の被官となり、北野荘の荘園代官(荘官)を務めたという。ちなみに、当時の記録などには、
長享二年(1488)、小畠七郎左衛門尉が北野社の祈祷米を押領
延徳五年(1493)、小畠弥五郎長守 代官として宍人を給分
永正五年(1508)、小畠七郎貞明が興田村、船坂村、宍人村を押領
などと見えている。小畠氏は船井荘の荘官という立場をてことして、丹波守護細川氏と緩やかな被官関係をもちながら丹波の国人領主に成長していったものであろう。
十六世紀になると、細川氏は内部抗争が連続して、次第に勢力を失っていった。細川氏の衰退は丹波の国人領主にも少なからぬ影響を及ぼし、各地で小競合いが勃発した。小畠氏の場合、北方黒田城主の森氏と武力衝突を起し、両者の戦いで古刹九品寺が焼失している。
やがて、細川氏の被官であった三好長慶が畿内の権力者にのしあがると、丹波も三好氏の勢力下におかれるようになった。権勢を誇った三好氏も長慶の死により、内部分裂をきたし、丹波はふたたび群雄割拠の状態となった。そのようななかで小畠氏は、八上城に拠って勢力を拡大した波多野氏に属するようになったようだ。しかし、永禄十一年(1568)尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、他の丹波衆らとともに信長に従うようになった。
小畠氏が拠った宍戸城は、本梅川沿いの宍戸集落の小山にある。宍戸公民館横の小道を登っていくと、ほどなく城址にたどりつく。そこには、堀切・土塁が散在し、驚かされるのは、小畠氏一族の住居が散在したと思われる広大な城域である。いまは、植林された杉が整然と生えているばかりだが、仔細に見ると、道のあとが確認でき、住居跡には井戸の跡も残っている。往時、小山の上に多くの邸が立っていた様を想像すると、何ともいえない感慨をもよおす城址である。
|
小畠氏は北方の黒田城に拠る森氏と戦いを交し、古刹の九品寺が焼失したと伝える。宍戸城址から北に向うと、ほどなく九品寺の丹塗りの山門(重要文化財)が左手に姿をあらわし、さらに進むと前方に黒田城址のある小山が見えてくる。宍戸城からは徒歩で一時間くらいの距離であろうか、まさに隣村同士である。戦国という時代はそのような隣同士の武士(住民)たちが、武器をとって命のやりとりをした苛酷な時代であったことが実感できる。
→ 黒田城址に登る
|
その後、織田信長と足利義昭が対立するようになると、内藤氏、波多野氏、赤井氏らは信長から離反していった。かくして、織田信長による丹波攻めが開始されることになる。小畠氏は信長方として行動、天正三年(1575)、小畠左馬助は信長から忠誠を尽くすよう命じる朱印状を受けている。そして、本領の安堵を受け、明智光秀の丹後及び丹波攻略に際しては、その助力に働いている。また、信長の命により、川勝大善亮らとともに八木城の内藤如安(忠俊)や宇津城の宇津頼重等を攻めたことが知られる。さらに、大坂本願寺攻めに参戦し、亀山城の普請にも協力している。
光秀の丹波攻めは波多野氏、赤井氏らの抵抗により苦戦を強いられたが、天正七年(1579)六月に八上城が落ち、ついで八月には黒井城が陥落して丹波一国は信長の支配するところとなった。小畠氏は織田氏に属して戦後処理に活動、小畠左馬進は宇津城の改修普請にあたっている。
園部藩士として生きる
天正十年(1582)六月、本能寺の変によって織田信長が死亡、さらに信長を討った明智光秀も豊臣秀吉との戦いに敗れて滅亡、豊臣秀吉が一躍天下人となった。しかし、秀吉の死後に起った関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、征夷大将軍に任じられ徳川幕府を開いた。大坂城に余喘を保っていた豊臣氏も、大坂両度の陣で滅亡、長かった戦国時代も終焉を迎えた。
時代が大きく動くなかで、小畠氏は宍人城にあって旧来の所領を保っていたようだ。大坂の陣ののちの元和五年(1619)、小出吉親が園部藩に封ぜられた。園部に入部した吉親は、小畠氏の宍人城に入り、築城地選びにあたったという。そして、現在の園部城址にあたる地に園部城を築いた吉親は、小畠氏に二百石と園部城蓮池の東台地の一部を与えて藩士に迎えた。以後、小畠氏は園部藩士として続いたのである。 ・2007年04月19日→11月12日
【丹波福住の桂峯山如来寺にある小畠氏の墓石に刻まれた柏車紋】
【参考資料:園部町報/日本城郭大系/園部町史・史料編 ほか】
■参考略系図
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|