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龍造寺氏の出自
・謎の多い、そのルーツを探る
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龍造寺氏の出自に関しては諸説がある。一説に、久寿元年(1154)、鎮西八郎為朝が九州で威を振るっていたころ、朝命によって鎮西監使五名が派遣された。そのうちの一人が、藤原秀郷六代の孫で、西行法師(佐藤義清)の叔父(一説には祖父)といわれる藤原季清は、子の季喜とともに肥前に入り、佐嘉郡龍造寺村に居を構えた。のち、季喜同郡高木の城主藤原季経の次男を養子として家を譲り、兄の子西行とともに四方に行脚したという。
その後、寿永二年(1183)壇の浦合戦で敗れた平家の残党が九州に潜入したとき、季家は一門を率いて追討に功をあらわし、文治元年(1185)龍造寺村の地頭職に任じられ、この地に城を築いて村中城を称した。そして、のちに龍造寺を姓とするようになった。
龍造寺の起源については、白山町の「瑞石山龍造寺」の俗称高寺がそれに該当するといわれるが、もとは天台宗の寺で、常陸筑波山の龍造寺の寺僧が来て住んだことから起こったものであるおいう。また、景行天皇の皇子、小確命(日本武尊)が熊襲討伐のため西国に下向したとき、有明海を舟行し、佐嘉沿岸に龍船を着岸して上陸したところを龍造島というようになり、その後、行基がこの地に一寺を建立したので、これを龍造寺と号するようになった、などいくつかの説がある。
季家のあとを継いだ季益は長瀬南三郎とも称し、佐賀郡長瀬の館に住んだといわれ、また鎌倉の鶴ケ岡八幡宮を勧請したとも伝えられている。
・資料:九州戦国史
■龍造寺氏の初期参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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・丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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