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鎮西武将割拠図
・戦国動乱、生き残りを賭けて戦った鎮西の群雄
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鎌倉時代から戦国時代にかけての九州は、互いに対立・拮抗する三つの勢力が、たえず三すくみの形をとって推移・展開していた。
鎌倉時代、島津・大友・少弐が鼎立し、南北朝の内乱期には、探題方(九州探題一色範氏=尊氏方)と宮方(菊池・阿蘇氏)および佐殿方(足利直冬方)に分裂して、複雑な抗争を展開した。その後、探題今川了俊の巧妙な戦略・戦術によって、一時小康状態を保ったが、了俊が京都に帰還したのちは、群雄割拠の状態となり、島津・大友・少弐の対立時代となった。
この三すくみの体制に、北九州の計略をめぐって、一時、中国の大内氏が加わったが、その後大内氏は陶氏に、陶氏は毛利氏に滅ぼされた。そして、毛利氏が九州に進出してくる。一方、肥前においては、少弐氏麾下であった龍造寺氏が戦国大名として台頭した。かくして、九州戦国時代は、龍造寺・大友・島津の三氏が、互いに覇を競ったのである。
■鎮西戦国武将-割拠図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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