ヘッダ



家紋 ………
龍造寺氏のその後
・鍋島氏の下風に埋没した一族たち



 龍造寺隆信は、天正十二年(1584)、島津・有馬連合軍と沖田畷で戦って、まさかの戦死を遂げてしまった。隆信の跡は嫡子政家が継いだが、政家の器量を危ぶんだ龍造寺一門、重臣たちは、危機を乗り切れる者は直茂のほかにいないとして、「御家裁判」すなわち領国の支配・経営を直茂に委ねることを話し合い、政家に訴えた。これにより、政家は領国支配の要請と誓紙を直茂に与えた。そこまで仰せられるならば、と直茂も承知したという。政家の心中はどうあれ、平和裡に龍造寺氏の領国支配権が鍋島氏に移っている。
 天正十五年三月の豊臣秀吉の九州征伐では、政家・直茂はいちはやく秀吉に降って、政家は肥前七郡その他三十一万石を安堵された。直茂はとくに秀吉の名指しで養父郡の半分と高木郡内の地四万五千石を与えられ、引き続き龍造寺の家政にあたることになった。
 十八年に政家は秀吉の命で隠居させられ、五歳の長法師丸(のちの高房)があとを継いだが、その後も「御家裁判」は直茂は掌握した。文禄の朝鮮出兵に際し、直茂は一万二千の兵を率いて従軍し、子の勝茂もまた出陣している。一方、隠居の龍造寺政家はもちろん高房も出陣せず、軍役を免除されている。軍役のないのは、すでに大名ではない。
 関ヶ原合戦では、勝茂は西軍に荷担して危ういところだったが、直茂の柳川城立花攻めの功により、許されて本領を安堵した。

龍造寺氏の没落

 その後、龍造寺高房は一諸大夫として将軍徳川秀忠に仕えた。国許からは年間八千石の料米がおくられていた。一方、勝茂は、徳川家康の養女を夫人に迎え、諸大名に列し、佐賀三十五万石の総力を結集して江戸、名古屋、駿府の城普請を手伝っていた。慶長十二年春、高房は突如、夫人を殺し、自分も自殺をはかるという事件を起こした。直茂は高房の切腹未遂を、鍋島に対する当て付けではないか、と立腹している。
 高房は、佐賀へ帰って養生することになっていたが、自暴自棄な行動で、自殺同然な死に方をした。そして、その一ヵ月後、政家も後を追うようにして死去した。ここに、龍造寺家の嫡流は断絶した。
 高房没時の龍造寺氏については、多久の龍造寺長信(隆信の弟)がおり、これは多久氏を称するようになった。諌早の龍造寺家晴(隆信のまたいとこで鑑兼の子)、武雄の後藤家信(隆信の子で後藤貴明の養子)、龍造寺信周(隆信の弟)などの実力者もいたが、鍋島勝茂は高房の弟龍造寺安良に村田の姓を名乗らせて、久保田で知行地を与えた。
 この村田家は家格は龍造寺家の宗家として遇されたが、前述の四家が譜役家老として鍋島佐賀藩政に深く関わったのに対して、村田家は藩政にはタッチしなかった。やがて、先の四家も多久家・諌早家・武雄鍋島家・須古鍋島家として龍造寺の姓を名乗ることもなくなった。
 ところで、高房のことがあったのちに、幕府は、念のため、龍造寺の一門三人(先の家晴・隆信の弟信周・長信)を江戸に呼んで、家督問題について意見を聞いた。三人とも、直茂の功績をたたえ、勝茂を相続人に推挙した。かくして、龍造寺氏に替わり、鍋島氏が名実ともに佐賀の大名となったのである。
 しかし、高房の子季明(伯庵)は、父高房の弟主膳とともに龍造寺家再興を訴えた。徳川幕藩体制はすでに確立、そして安定しようとしている時に、血統による正統性をしつこく繰り返す動きは幕政担当者にとっても気乗りのしないことであった。結局、幕府は鍋島氏の佐賀藩主であることを公認し、訴えをしりぞけ、伯庵の身柄を江戸から追放して、正保元年(1644)、会津藩主保科正之のもとに預けた。
 これで、龍造寺家再興の動きは終わったが、一方、龍造寺主膳は扶持米千俵を支給するように幕府にはたらきかけたり、幕府の御家人になしてほしいと訴え、結局、大和郡山の本多家へ預けられ、のち本多家の家臣となった。
 龍造寺氏から鍋島氏への政権交代は、隆信の島原遠征の失敗が原因で、当然に帰結であった。しかし、伯庵事件にみられるように多少の混乱もあったことは事実だ。しかし、主流はこの交代を当然のことと受け取っていた。また、鍋島家でも旧主家をないがしろにしないという態度をとった。そうしなければ、旧龍造寺家系の家臣団の信頼は得られなかった。
 しかし、鍋島藩以外の人にとっては、格好の話題となり、ひどいものでは「鍋島化け猫騒動」などの話も伝えられている。もちろん、根も葉もないフィクションであることは言うまでもない。
  




戻る 上へ

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ


地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
………
奥州葛西氏
奥州伊達氏
後北条氏
甲斐武田氏
越後上杉氏
徳川家康
播磨赤松氏
出雲尼子氏
戦国毛利氏
肥前龍造寺氏
杏葉大友氏
薩摩島津氏
を探究しませんか?

人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

www.harimaya.com