葛西氏の家系
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葛西氏の系譜は十指に余るものが伝わり、それぞれ、まるで別個の系譜を見るような相違がある。しかし、
仔細にみていくとどうやら二通りの原本が存在したようである。すなわち、
●A系図
清重−清親−清時−清経−清宗−清貞−良清−満良−満清−持重−信重−満重−宗清−晴重−晴胤−義重−晴信
●B系図
清重−朝清−清親−清時−清信−貞清−高清−詮清−満信−持信−朝信−尚信−政信−晴重−晴胤−親信−晴信
宮城県史では「仙台葛西系図」を採り上げて「A系図」を支持し、岩手県史では諸系図を客観的に総合して「B系図」に
妥当性を発見するという、まことに奇妙な結果をみせている。郷土史家の紫桃正隆氏は葛西氏が陸奥の恩領へ土着した
背景には、、はじめに現地に下向したであろう庶流の地頭代と、のちに下向してきた嫡流家とのトラブルがあった。
あるいは戦国期における二系分立相剋の問題、とくに戦国末期における伊達氏の政治的介入の結果生じた
家臣団の"親伊達"と"反伊達"の対立があった。そこにA・B二系の系図が生じた原因があったのであろうとされている。
まったく同感で、そのとおりと考えられる。
『葛西盛衰記』によれば、B系の清信には六子があると書かれ、それぞれ長坂・百岡・江刺・本吉・浜田・一関に
分立し、のちの葛西家臣団の骨格となる大原・柏山・江刺・本吉・浜田ら千葉系家臣のルーツとなった。
この清信を嫡流家に認めるか、庶流とするかの位置づけは今後の課題となっている。
南北朝時代、A系図にみえる清宗・清貞・良清の三代は南朝に属した。清貞は陸奥国司北畠顕家に従って軍功を挙げ、
磐井・胆沢・牡鹿の三郡に加えて、江刺・気仙・本吉・登米・桃生といった諸郡を大体勢力下に置くことに成功したという。
一方、B系図では南北朝時代の太守は貞清・高清である。二人はA系図にみえる清貞・良清と同一人物と
考えられるがそれを裏付ける史料はない。『五大院系図』には、登米地方にいた高清(武治?)は暦応二年(1339)五月
に上洛し、足利尊氏から葛西太守として公認され奥州北方探題となって帰ったと記されていることから、
逸早く北朝方に転じたことが知れる。『葛西史疑(森谷一仁著)』には「あくまで南朝に固執する石巻城の嫡流家で
ある良清一統は興国四年(1343)を境にして威勢が衰え、ついに登米系に吸収合併され、
嫡流家を庶流家に明け渡す主客交代が行われた」と推論を展開されている。この推論も有力な説のひとつである。
康永二年(興国四年)北朝の権力者、探題石堂義房が、当時焼失した中尊寺再建にあたり梵鐘を寄進しており、
鐘銘のうしろに
大檀那 左近将監平親家
大檀那 当国大将沙弥義慶
と見える。ここに書かれた石堂義房(義慶)と連名した、もう一人の大檀那平親家とは何者であろうか。
従来葛西太守と思われながら判らずにいた謎の人物、平親家こそ実は高清(武治・重清)の次男であるという。
「奥州寺池葛西系図」によれば、高清には二子があり、長子重信(詮清)は太守を継いで登米に止まり、
次子親家は支流となって石巻城に入った。以後、二系は足利政権公認の奥州大名として本支一体、室町中期まで繁栄した。
●奥州寺池葛西略系図
重清−┬−重信−某 −持信−信重−重千代−春重
(高清)│(詮清)(満信) (朝信)(尚信)
└−親家−清澄┬重勝
└春重(嫡流を継ぐ)
■参考略系図
・葛西氏の系図は本文にも記したように、さまざまなものがある。それらを統合して作成した系図を掲載。
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