後北条氏戦記
氏康時代の合戦
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河越の夜戦
●天文十五年(1546)四月
●北条氏康VS扇谷上杉朝定・山内上杉憲政
天文十年(1541)七月、氏綱は死んだ。家督は嫡男氏康が継いだ。ときに二十七歳。直後、扇谷上杉朝定が、河越城の奪回を図って二度にわたって攻撃をかけてきた。しかし、二度とも撃退された。そして、関東管領山内上杉憲政も、北条家打倒を狙っていたのである。こうして、扇谷・山内両上杉氏は大同団結した。
そして十四年、氏康にとって生涯最大の危機が襲った。まず、同年八月、西隣の今川義元が駿河下方庄に侵入してきた。ただちに氏康は兵を率いて迎撃に走った。そして駿河国今井郡狐橋で対陣、今川軍中には。武田菱の旗も混ざっていた。甲斐の武田信玄が、妹婿の義元の加勢に駆けつけてきていたのである。この時期、北条家と同盟を結んでいたのは、一人、古河公方足晴氏だけであった。氏康の妹を妻に迎えていたからである。しかし、血筋のみを誇って、恃みになる武将ではなかった。東駿の地で北条軍が今川・武田連合軍と対峙し、武田・今川両氏に呼応して両上杉氏が提携したことを知ると、晴氏は北条氏を裏切った。形勢の非を感じて、反北条側に奔ったのである。
同十月、両上杉氏と足利晴氏は立った。氏康の妹婿北条綱成が守る河越城を包囲したのである。包囲軍は公称八万騎だったという。西と北の両方からの攻撃で、北条軍は危険な両面作戦を強いられることになった。危機であった。このとき、奇跡が起こる。北信の大豪村上義清が、諏訪地方の武田軍に対して大攻勢に出ようとしたことから、信玄は対北条戦に麾下の兵を割くことができなくなり、両軍の調停に入ったのである。武田氏との和睦はすぐに成立し、条件もほとんどなかった。しあし、今川氏との和睦の代償は大きかった。駿河下方など富士川以東の駿河領が今川家に返却されることになったのである。
結果はともあれ、こうして西方からの脅威は去った。しかし、北方の河越城は、まだ両上杉氏の包囲下にあった。河越城は、兵糧攻めにされていたのである。武田信玄の調停があったにも関わらず、両上杉氏との和睦はなかなか成立しなかった。この和睦交渉に氏康は必死の態度で臨んでいたことが、勝利への自信のなさを感じさせ、両上杉側が和睦の代償を吊り上げることになり、交渉を長引かせていたのである。そして、両上杉氏はほとんど勝利を手に入れたかのように安心しきってもいた。半年の籠城で、場内の北条勢にも疲労の色が見え始めてきたようでもあった。
そして、天文十五年四月二十日の深夜、事は起こった。八千の兵を率いた氏康が、突如、柏原の上杉方の本陣に夜討ちを決行したのである。同時に、疲労を装っていた場内の北条軍三千も、なだれをうって出撃してきた。油断しきっていた両上杉軍八万余は、城の内外を合わせて一万余の北条軍によって、まったく完膚なきまでに蹴散らされた。
上杉朝定はその場で討ち取られ、上杉憲政は上野平井城を経て越後の長尾景虎を頼って落ちていった。古河公方足利晴氏は辛うじて本拠の下総古河に逃げ入った。しかし、天文二十三年、北条軍に捕えられて、幽閉され、やがて下総関宿で死んだ。
直後、太田資正の逃げ込んだ武蔵松山城は落ち、山内上杉氏の重臣であった滝山城の大石定久、天神山城の藤田邦房らはともに降伏し、隠居した。ここに、武蔵一国も、ほぼ北条氏の版図に入った。このようにして、河越の夜戦を境として関東の戦国地図は大きく塗り変えられたのである。
第二次国府台の合戦
●永禄七年(1564)四月
●北条氏康VS里見義弘
国府台の合戦に敗れた里見義堯は、しばらくすると西上総への侵略を開始した。国府台合戦に義堯自身参加したが、大将は小弓義明であって、里見方の主力はあまり打撃を受けなかったらしい。むしろ房総の一大勢力であった小弓義明の滅亡は、義堯にとってチャンスともなった。つまり、義明なきあと、房総の最大勢力に里見氏がなったのである。
天文二十三年、氏康は甲斐の武田氏、駿河の今川氏と和睦し、甲・駿・相の三国同盟が成立した。ただ、恐るべきは越後の長尾景虎であった。義堯は三国同盟の成立を見てとるや、長尾景虎に誼を通じ、房・越の同盟を成立させ、これをバックに小田原北条氏に対抗した。里見氏もいよいよ房総の一地方から群雄の相争う東国の檜舞台に上がったのである。
永禄三年(1560)北条氏康は大軍を率いて房総に侵入し、義堯の本拠久留里城を囲んだ。義堯は慌てて越後の景虎に急使を送り援兵を請うた。これを受けて景虎は関東に出陣し、北条方の諸城を落したため、氏康は久留里の包囲を解いて武蔵河越へ出陣した。これによって久留里城の危機は去った。その後、義堯は、越後勢の関東進出により退潮気味となった北条氏勢力を追って、上総はもとより下総にまで侵略の手を伸ばした。この年関東で越年した景虎は破竹の勢いで関東を席巻し相模に迫った。これまで北条氏に圧迫されていた関東の諸大名はこぞって景虎のもとに結集した。氏康は利根川・多摩川の線での防衛を断念し、小田原城に立て籠った。こうして、越後勢を主力とする関東諸将の連合軍は、小田原城をめがけて殺到した。この戦に義堯は子息義弘を大将として軍勢を送って参戦した。
永禄六年六月、上杉謙信が越後に帰ると、武田信玄はすかさず北条氏康を誘って関東に侵入した。この報を聞いた謙信は再び関東へ出馬し、上野厩橋城に入った。そして、里見義堯・義弘に手紙を送り、出陣を要請した。これに応じた義弘は、さっそく安房・上総の軍勢を率いて北上して下総に入り、翌七年正月四日にその主力は市川に陣を布いた。そして、岩槻城にいる太田三楽斎資正と連絡をとり、岩槻城に兵糧を送ろうとした。
この里見氏の動きを、下総小金の高城氏や江戸城からの知らせによっていちはやく察知した北条氏康は里見氏の進撃を下総・武蔵の境で阻止するために全力をあげて里見軍との決戦を決意し、相模・伊豆・武蔵の一族家臣に檄をとばして早急な参陣を命じた。
一方里見軍は、岩槻の太田三楽斎資正の軍勢とともに、市川の北方国府台の上に陣して北条軍を迎え撃った。これが有名な永禄七年の第二次国府台の合戦である。この合戦の様子は、例によって戦記物語類は面白く書いているが、実際のところは何も分からない。しかし、結果は里見軍が再び大敗し、義弘および正木時茂はかろうじて逃れたが、時茂の嫡子・弟らは討死したという。
この合戦に大勝した北条軍は、敗走する里見軍を追って南下し、その先鋒は上総に入って椎津城を攻め、これを落した。しかし、深追いをやめて兵を返した。それは、当時関東へ出馬中の謙信が背後にあったからである。
三船台の戦い
●永禄十年(1567)八月
●北条氏康VS里見義弘
永禄七年正月の第二次国府台合戦で大敗した里見義弘は、同九年二月、常陸の小田氏治を攻略した余勢をかって下総へ進出してきた上杉謙信に呼応して、北条方の原胤貞の守る臼井城の包囲軍に加わった。北条氏康は援軍のため出馬の用意をしたが、その前に城兵が反撃に出て上杉軍を撃退した。
里見氏はその後も何度か下総へ攻勢をかけたため、永禄十年八月北条氏康は里見氏の本拠であった佐貫城、久留里城を海路から攻めることに決し、その拠点として三船山に新しく陣地を築いて大軍を派遣・出兵させた。佐貫城の里見義弘と久留里城の父義堯は、呼応して三船山を囲み、北条・里見両軍に戦端が開かれた。
これを三船山の戦いといい、結果は北条勢の大敗となり、武蔵岩付城主の太田氏資ほかの名だたる武将が多数討死し、北条勢は全滅に近い状態であった。こうして北条氏の里見氏攻略は失敗に終わり、逆に里見氏を勢いづけてしまうことになった。
北条氏康は、その後、北関東での上杉氏との対決、さらに永禄十一年十二月以降の武田信玄との抗争に忙しく、再び大軍をもって里見氏を攻める機会はなかった。
三増峠の戦い
●永禄十二年(1569)十月
●北条氏康VS武田信玄
永禄十一年十二月、甲斐の武田信玄は。それまで同盟関係にあった駿河の今川氏との同盟約を破って駿河へ侵攻し、今川氏真を追放して駿府を占領した。北条氏康は氏真を支援して駿河に出兵、信玄と対決し、いたんは勝利する。が、翌十二年四月、信玄は再び駿河を占領し、その後は駿東郡をめぐって氏康と対決することになった。
信玄は十月、甲信、西上野、武蔵を経て氏康の本拠地小田原城を包囲する陽動作戦に出た。そして、自ら大軍をもって出陣し、小仏峠から武蔵に入った別働隊と合流して小田原城を攻撃した。氏康は籠城策をとり、遠征軍が自滅するのを待った。信玄は小田原城下に放火するなどして氏康を挑発したが城兵は動かないので、長期戦になることを恐れて帰陣の途についた。
同月六日、武田軍が三増峠を越えようとした際、それを追撃してきた北条氏照・氏邦兄弟らと合戦になった。これを三増峠の戦いという。この戦いは『甲陽軍鑑』しか記録がなく、同書はかなり武田びいきのため割り引かねばならないが合戦の様子は以下のようであった。
北条勢は三増峠の中里・上宿・下宿村に陣をとっていた。しあしかれらは山岳戦につよい武田勢を正面からさえぎることに危惧をいだき、小田原に援軍を求めた。しかし。武田勢の進軍はまるで脱兎のような速さだったため、小田原勢はとうてい間にあわず、やむなく丘の上から形勢を観望していた。ところが武田勢の約三分の一を占める山県昌景以下五千の将兵が静に志田峠を越して姿を消し、眼前の武田の兵力が減少し、とくにながながと続く内藤昌豊の小荷駄隊を眼下に見下ろしたとき、北条方の勇将綱成は黙視できなくなり、俄然攻撃を開始したのである。
むろん武田勢もただちに応じ、ここに両軍激戦となった。ところが驚くべきことに、志田峠をこえ津久井方面に去ったはずの山県勢が、ふたたび峠を越えて引き返し、北条勢の左翼に襲いかかった。激闘の真っただ中だけに北条側の気付くのが遅れ、大混乱に陥り戦死者実に三千余人という大敗北を喫し、北条勢は半原山に逃げ込む始末となった。武田軍も九百余人の死者を出し、まさに激戦であった。
信玄は甲府へ帰陣後、その報復のために直ちに駿東郡へ出兵し、ついで伊豆へも侵攻している。この後両者は元亀二年(1571)氏康が病死し、その遺言によって和睦するまで、駿東郡の攻防をめぐって烈し戦闘を繰り返すことになる。上野・武蔵でも両者の対立が続き、これがために信玄は西上の機会を遅らせることになった。
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