後北条氏戦記
早雲/氏綱時代の合戦
相模三浦氏との戦い
●永正七年(1510)〜十三年(1515)
●北条早雲VS三浦導寸(義同)


 晩年の早雲にとって、最強の敵となったのが三浦義同であった。義同は上杉氏から三浦氏に入り養父を倒して相模守護職と三浦氏の家督を継いだ。そして、相模一国の併呑を図る早雲の前に立ち塞がったのである。はじめ形勢は五分と五分であった。
 永正七年七月、上杉朝良を擁した義同が、早雲方の権現山城を攻撃して陥し、ついで住吉城を攻めた。権現山救援のため、出陣した早雲は三浦軍の攻撃に耐えきれず兵を率いて逃れた。住吉城も三浦氏の手に落ちたのである。そして本拠の三浦半島の防衛陣を固めた三浦軍は。勝ちに乗ってさらに攻勢にでてきた。状況としては早雲側が不利であった。
 権現山・住吉の両城を失った早雲は、翌年、外交手段によって三浦軍と同盟していた上杉朝良と和を結び、三浦方の勢力切り崩しに成功したのである。しかし、早雲はすぐには攻勢に出ず、三浦軍が疲弊するのを待ちながら、密かに兵の調練を続けたのであった。
 そして永正九年八月、三浦軍に対する大攻勢を開始した。まず、義同の拠る岡崎城を攻撃してこれを抜き、逃げる義同を追って住吉城の攻撃にとりかかった。しかし、天然の要害である住吉城はすぐには落ちなかった。早雲は住吉城の付城として玉縄城を築き、翌十年正月まで両軍の小競り合いが鎌倉内で頻発した。いわゆる「鎌倉合戦」である。鎌倉時代以来の名刹古社で南北朝内乱期の戦火で大半が焼失していたが、この戦いで、わづかに残っていた貴重な寺社もこのとき失われた。
 やがて、住吉城は落ち、敗れた義同は三浦半島にある新井城に立て篭った。早雲はすぐに攻撃をかけず、以後三年間にわたって兵糧攻めにして干しあげたのである。そして永正十三年七月、早雲は総攻撃をかけ、その攻勢の前にさしもの要害新井城もついに落ち、義同・義意父子はともに壮烈な討死をとげた。早雲が死んだのはそれから三年後、実に八十八歳であった。


武蔵侵攻戦
●大永四年(1524)〜六年(1526)
●北条氏綱VS扇谷上杉氏・里見氏


 大永四年頃、氏綱は伊勢氏を改めて北条姓を称した。文字通り鎌倉幕府の執権家だった鎌倉北条氏の姓を仮冒したのである。将軍に対する執権は、いわば副将軍である。狙いは小弓御所足利義明に対抗するためだった。氏綱が関東で覇を唱えるには、これとの一戦は避けられなかった。そして、名門足利氏の末と対抗するためには、天下の副将軍たることを宣言しなければならなかったのだ。それは、武蔵国に侵入することを宣言したことでもあった。小弓御所・上杉氏・里見氏などに対する氏綱の合戦は、こうして開始されることになる。
 氏綱は扇谷上杉氏の家宰太田氏の調略に成功し、大永四年正月、兵を武蔵に入れた。迎撃に出た扇谷上杉氏は高縄原の一戦に敗れ、江戸城を捨てて河越城に逃れた。続いて毛呂・岡本両氏が内応してきたのを機として、さらに毛呂・石戸の線にまで進出して河越・岩槻両城を孤立させ、翌五年には岩槻城を落して、蕨城とともに四方から河越城を包囲する態勢を整えた。
 しかし、戦線が延びたことは北条軍の弱点にもなった。翌六年にはいると、蕨・小沢両城が奪回された上、安房里見氏の軍船に、海路鎌倉を攻められるという痛手を受けたのである。さらに天文四年(1535)、今川氏親の子氏輝も求めで甲斐に出兵していたとき、その留守を上杉朝興の軍に相模に侵入され、湘南一帯を掠領されている。
 やがて同六年、武蔵南半の領国支配を固めた氏綱は、河越城攻略を本格化し、大軍を河越城に向け、出撃してきた上杉朝定を三木で完膚なきまでに叩いたのである。敗れた朝定は、河越城を捨てて松山城に逃れた。空城になった河越城には氏綱の次男為昌が入った。


第一次国府台の合戦
●天文七年(1538)十月
●北条氏綱VS足利義明・里見義堯


 北条氏綱が武蔵方面に軍事行動を活発にしていたとき、今川家の家督を継いだばかりの今川義元が甲斐の武田信玄の娘を正室に迎え、甲駿両国の同盟を結んだのである。先代の今川氏輝に頼まれて甲斐に出兵したこともある氏綱は、今川氏に裏切られたの感があった。事実、早雲以来、北条家の領地だった興国寺城を含む駿河下方十二ケ郷は、危機に瀕した。
 このとき氏綱は、機先を制して駿河に出兵、富士川以東の地の確保に成功した。しかし、北条家が西方の駿河、北方の武蔵と転戦を余儀なくされている情況を看てとったのが、房総の小弓御所足利義明と里見義堯だった。そして、東北方から北条家の領国に迫ろうとしたのである。
 氏綱は急遽、兵を下総に向けねばならなくなった。こうして天文七年十月二日、氏綱は氏康とともに小田原城を発して江戸城に入り、伊豆・相模の兵を集めた。そこで作戦を練り、六日に江戸城を出陣、七日に国府台に着陣し、第一次国府台合戦が始まったのである。江戸川東岸の高台に拠っていた足利義明は、西岸側から北条軍が敵前渡河するのを黙って見ていた。
 結果は、足利・里見の混成軍の約二倍にあたる二万という大軍を動員した北条軍が、一方的に勝利を収めた。足利義明は、子の義純・弟の頼基らとともに戦死した。同じく敗れた里見義堯は房総半島南端の安房に屏息し、当面の間、氏綱は東方房総半島を注視する必要がなくなった。こうして、北条家の領国は、富士川以東の駿河半国・伊豆・相模・上総・下総および武蔵の南半にまで及ぶことになったのである。
  




戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る…
諸国戦国史

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