後北条氏戦記
氏政/氏直時代の合戦
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薩垂峠の戦い
永禄十二年(1569)一月〜四月
(静岡県清水市興津東町.庵原郡由比町西倉沢)
北条氏政VS武田信玄
永禄十一年(1568)武田信玄は今川氏真を駿府館を遂い、氏真は、今川氏筆頭老臣である朝比奈泰朝が守る掛川城に落ちていった。十二月十五日であった。しかし、掛川城も徳川家康の軍に攻められることになる。
氏真が掛川城に落ちていったことは、すぐ同盟者である小田原城の北条氏政のもとに届けられた。翌年正月、氏政はすぐ、自ら四万五千という大軍を率いて氏真救援のため駿河に入った。ところが、すでに駿府を占領していた武田軍は一万八千の兵で薩垂峠を固めた。
薩垂峠付近は東海道の難所として知られるところで、山が駿河湾に迫り、交通可能なところは薩垂峠のわずかな地点に限られていたのである。そのため、四万五千という大軍の北条氏政は、武田軍に道を阻まれる形となり、そこから西に進むことができなかった。こうして薩垂峠をはさんで、永禄十二年一月十八日から四月二十日まで、戦いが繰り広げられたが、勝敗はつかず、結局、両軍は兵を撤退することになった。この薩垂峠の戦いにおいて永信の孫信広が戦死している。
ところで、掛川城に逃げ込んだ氏真は、徳川軍の攻撃をよく防ぎ、長期戦となっていった。そして、北条氏の援軍を待ったが、三月、家康自身も出馬して掛川城下で激戦となったが、勝敗はつかなかった。やがて、北条氏の援軍は武田氏にはばまれて帰国、家康もこれ以上戦いが長期化することは、武田信玄との関係においても不利と考え、ついに講和にもちこみ開城させた。五月十七日のことであった。この日が実質的に今川氏滅亡の日となった。
蒲原城の戦い
永禄十二年(1569)十二月
(静岡県蒲原郡蒲原町蒲原)
北条綱重VS武田勝頼
蒲原城は東海道蒲原宿を見下ろす山城で、東海道の要衝の城であった。この時期武田信玄が駿河に侵入し、駿河は武田氏の領国になりつつあったが、今川氏真支援の名目で北条氏政も兵を駿河に送り、蒲原城のように北条方の城になっているところもあった。
城主は北条新三郎綱重で、かれは早雲の三男幻庵の子であった。綱重は城兵一千で蒲原城を守っていた。
永禄十二年十一月末に薩垂山砦を落した武田軍は、その勢いで蒲原城をめざした。まず、十二月四日、岩淵の宿を焼き討ちし、五日夜には城の麓に展開する蒲原宿にも火を放ち、いよいよ城攻めにかかった。
攻める武田側は、さきに今川遺臣岡部正綱によって奪還された駿府館をふたたび奪い取るため、その障害となるであろう蒲原城を攻め取るということで意気があがり、一方の北条側は最初から消極的で守勢であった。
武田軍の総大将には信玄の四男勝頼が任命されており、武田氏としても並々ならぬ覚悟だったことがうかがわれる。また、信玄の甥にあたる武田信豊も従軍していた。
十二月五日夜から翌六日未明にかけて戦いが繰り広げられ、城兵わずか一千の北条軍はよく守った。しあkし、城はついに落ち、城主の北条新三郎はもとより、その弟長順をはじめ、清水氏や笠原氏といった北条氏の重臣も何人か戦死しており、かなりの激戦であったことがうかがわれる。
深沢城の戦い
元亀二年(1571)一月から三月
(静岡県御殿場市深沢)
北条綱成・氏繁VS武田信玄
深沢城は東駿河の要衝の城で、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康・氏政父子のどちらにとっても重要な城であった。
すでに元亀元年四月の時点で第一次深沢城の戦いともいうべきものがあり、信玄の部将駒井昌直が守る深沢城を北条氏康・氏政父子が攻め、六月には城は北条方のものとなり、北条綱成が城主として入っていた。
武田氏が深沢城奪還に動き出したのはその年の暮れで、翌元亀二年一月三日から大規模な城攻めがはじめられた。有名な「深沢城の矢文」が射込まれたのはこのときのことで、もちろん城将北条綱成は信玄の開城勧告を一蹴している。
武田軍は、甲斐から金掘り人夫を呼び寄せ、城に穴を掘って攻めたてたため、さしもの綱成・氏繁父子も城を守りきれず開城してしまった。このとき、小田原城にいた北条氏政は、信玄軍が動いたという情報を得て、すぐ深沢城に向けての後詰の兵を送ったが、少しのところで間に合わなかった。
しかし、これで深沢城の戦いが終わったわけではなかったのである。今度は、深沢城に入った武田軍を、城の外に出た北条軍が後詰の兵を合流させて攻めたてることになった。戦いそのものは三月二十七日まで続いている。
岩井の戦い
元亀二年(1571)五月
(茨城県猿島郡岩井町)
北条氏政VS佐竹義重
氏政の代になっても、北条氏は着々と勢力圏を拡大していき、関東で最後まで敵対するのは常陸の佐竹氏と房総の里見氏だけとなった。元亀二年、北条氏政は佐竹義重を討伐しようとして会津の葦名盛氏と連絡をとりつつ下総へ出陣した。氏政は途中、下総の関宿城主梁田晴助の出迎えをうけ、結城晴朝としめし合わせて五月二十二日には結城の山川城に着陣し、鬼怒川をはさんで佐竹勢と対陣した。
氏政はまず佐竹方の多賀谷政経の拠る下妻城を攻撃した。これに対して当時葦名盛氏と対戦していた義重は急ぎ引き返し、宇都宮で兵を集めたのち南下していった。北条・佐竹両軍の戦いは各地で繰り広げられたが、とくに激戦であったのが岩井の戦いであった。
北条氏政・氏照は岩井に布陣していたが、そこへ佐竹義重の兵が夜討ちをかけようとしていたところ、そのことを事前に察知していた北条勢が伏兵を置いていたため、佐竹勢を撃退することに成功し、その勢いで鬼怒川を越えて下妻城へ攻め寄せたのである。『古先御戦聞書』という佐竹方の記録では、岩井で北条・佐竹両軍が対戦しているとき、房総の里見氏の水軍が伊豆沖に出現したという情報がもたらされたため、氏政は義重と和議を結んで急ぎ小田原へ引き揚げた、と伝えている。
一方、下妻城でも死闘が繰り広げられていたが、多賀谷政経の計略によって落城するまでに至らなかった。結局、北条・佐竹の両軍はこれといった戦果をあげることができないまま、双方陣を引き揚げた。
重須の戦い
天正八年(1580)三月
(静岡県沼津市内浦重須)
北条氏直VS武田勝頼
今川氏の滅亡後、駿河は武田氏のものとなった。この変化によってもろに影響をこうむったのが北条氏の領国伊豆であった。それまでは駿河湾は安全であったのが、急遽軍事的対応を迫られることになったのである。
北条氏政は、伊豆西岸部の防備を厳重にするため、天正七年十一月、長浜に船掛庭を築かせた。これが重須の湊であった。重須の湊を守るための軍事施設として設けられたのが長浜城である。『北条五代記』によれば、重須湊・長浜城には後北条水軍の将梶原備前守をはじめ、清水越前守・富永左衛門尉・山本信濃守らが置かれていた。
ところで、重須の戦いというのは海戦であった。天正八年三月十五日、後北条水軍と武田水軍が重須沖で衝突してのである。
戦いは、武田勝頼が浮島ケ原に出陣したことに始まる。北条氏政は子の氏直に出陣を命じ、氏直は重須湊から兵船を繰り出し、梶原備前守ら後北条水軍の錚々たる将が押し出していった。
それに対し、勝頼も向井氏ら武田水軍の将に命じて船を出させ、ここにおいて重須沖で海戦が繰り広げられることになった。駿河湾の海戦としては後々にまで語り継がれるほどの激戦であったが、結局、勝負はつかず、日没になって双方が船を引いたことによって戦は終結した。
神流川の戦い
天正十年(1582)六月
(埼玉県児玉郡上里町ほか)
北条氏直VS滝川一益
天正十年三月、武田氏滅亡のあと織田信長は滝川一益を関東管領として上野厩橋城に置いた。もっとも一益が支配したのは西上野と信濃小県・佐久の二郡でいずれも旧武田領であった。ところがこの年の六月二日、信長が本能寺で明智光秀の謀叛によって殺されてしまったことから事態は急変した。
織田氏と同盟関係にあった北条氏政・氏直父子は、はじめは一益に二心のないことを告げていたが、信長の死が確認されると逆に関東から織田勢力の駆逐をはかるようになった。六月十六日、氏直を主将とする北条軍は上野国倉加野に手を入れ、これに対して一益は厩橋城から南下し、上野・武蔵の国境である神流川を越えてきたところを迎え撃った。十八日に金窪・本庄の原で両軍は一戦におよび、さらに翌十九日にも戦いが行われた。この両日にわたる戦いで氏直勢は大勝し、逃げる一益を追って北条軍は倉加野を越え、箕輪と惣社に至る線まで追撃していった。
完敗した一益は、いったん信濃の小諸城に入ったが、関東経営を完全に放棄して本領の伊勢長島に逃げ戻っていった、一方、氏直は一益を追うかたちで信濃に入り、旧武田領の接収をすすめていった。
一益がいなくなったことで、北条氏は上野における旧武田領を完全に手に入れることができた。また、甲斐でも川尻秀隆が一揆に殺されてしまい、旧武田領から織田勢力は一掃された。代わって北条・上杉・徳川の勢力が進出し、東国戦国史は新たな段階に入っていった。
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