早雲の出自伝説
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戦国時代は応仁の乱をもってその始まりとされる。そして、その時代を力で生き抜いた戦国大名の魁となったのが伊勢新九郎、のちの早雲である。
早雲はまた、「戦国のキョウ雄」という、あまり名誉とはいえない形容を与えられがちである。それは、早雲の下剋上のイメージと下剋上を成功させた再三の奇襲戦、それに加えて「素性の知れない成り上がり者」とされてきたことなどが、その要因だろう。
また、早雲伝説のひとつとして、京都にいた長氏には、素浪人の仲間がいた。荒木兵庫・田目権兵衛・
山中才四郎・荒川又次郎・大導寺太郎・有竹兵衛らである。一日、長氏はかれらを集めて結盟した。七人が相互に協力しあい、うち一人が一国一城の主になったら、他の六人はその家老になると約束しあったのである。そして、やがて長氏が出世した。約束通り、他の六人は長氏の家臣になったというものである。とうてい、事実とは思われないが、後北条氏のほぼ確実な史料である『小田原衆所領役帳』には、かれらの名が重臣として記されている。
このように早雲の出自・前身については、伝説的部分が多く、またそれをふまえた評価が与えられている。しかし、小田原北条氏五代の祖、早雲の素性や行動については、近年のすぐれた諸考察・研究で一段と明らかになってきている。その出自を京都あるいは備中などとするものである。いずれにしても、室町幕府の中枢の参与する伊勢氏の一族で、自身、幕府申次衆の一人として将軍に仕えていた、という見解は一応定説と見なされてきている。
早雲は、れっきとした中央官僚であって、広範囲な情報にもとづく政治・行政上の知見は、並の地方大名などよりはるかに豊かであったに違いない。少なくともそういう環境に身を置いていたわけで、このことは早雲の行動や戦略、戦術を考察する上で、もっとも重要なファクタとなるものであろう。
早雲の前身(幕府官僚)を感じさせる傍証として、一つに、『北野社家日記』などに、申次衆として早雲と思われる人物の名がみえ、伊豆出身とされていた重臣の笠原氏は、備中時代から伊勢氏に属していたという研究成果も発表されている。さらに、早雲のはやい時期に家臣となった遠山氏は、室町幕府内で早雲と知り合ったようでもある。家財奉行などをつとめた大草氏なども幕府の同僚であったものが早雲に属したと思われる。のちには奉公衆の大和氏なども北条氏幕下に加わっているのである。かれらは、幕府内で培った知識をもって、北条氏を援けた家臣でもあったのだ。
少なくとも早雲は、「どこの馬の骨とも判らない」という素性の怪しい人物ではなかった。それとは逆に、名族の生まれで、知性と教養のある立派な人柄であったと、諸史料などは語っているのである。かてて加えて、当時の柔弱化した中央官僚にはない、骨太さをもった人物であったことは、今川氏の食客となってから見せる早雲の行動が語っている。
歴史への登場
早雲の戦歴は、駿河国の守護今川氏義忠に嫁いだ妹の北川殿との縁による、駿河下向後から知られている。早雲が今川家の客将から隣国の伊豆、そして相模へ進出して独立大名にまでなったその軌跡には、波乱に富んだ戦歴の数々が刻まれているのである。
文明八年(1476)今川義忠が幕府の要請で遠江に遠征中、一揆の流れ矢に当たって不慮の戦死を遂げた。間もなく駿河ではその後継をめぐり対立が生じた。義忠の子、すなわち北川殿の生んだ竜王丸は幼く、義忠の従兄弟小鹿範満が政務をとる態勢で守護館に移ってきたため、北川殿は乱を避けて竜王丸を連れて身を隠した。家臣は二分して、各地で紛争が続発し、東国の政局にも影響を及ぼすまでになった。この事態を重視して伊豆の堀越公方足利政知は、上杉憲政を大将とする三百騎を、また範満と縁がある扇谷上杉氏は太田道灌を代官として同じく三百騎を派遣したため、とりあえず内紛は鎮圧した。しかし、後継者の問題は解決したわけではなかった。
このとき、早雲は太田道灌と対面し、今川氏内部のことについて語り合ったという、すなわち、早雲の扱いで事を収めるというものであったようだ。武将としてすでに名声を得ていた道灌に対し、早雲は未だ無名の存在であったが、道灌は早雲に委ねることにしたようである。ここにも、ただの素浪人とは思えない早雲の横顔を見ることができよう。
そこで、その調停者として早雲が登場することになり、家督は竜王丸に継がせ、成人するまで政務は範満がとるという裁定でその場は決着した。文明十一年、竜王丸は将軍足利義政より家督相続承認の御内書を得て、また元服して氏親と名乗った。ところが、さきの政権委譲の約束は果たされなかった。調停十一年後の長亨元年(1487)に至って、早雲はひそかに今川譜代の者たちを催し、御館へ攻めいり、範満を討ち滅ぼした。この奇襲は、公的に範満の不義を認知させる手続きを踏んだうえに決行された、用意周到なクーデターであった。早雲の深慮遠謀が躍如としている。氏親の家督継承の功により、駿東の興国寺城と富士下方十二郷を早雲は与えられた、一城の主となったのである。
早雲の飛躍
興国寺城の城主となった早雲は、延徳三年(1491)四月三日、堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の乱れに乗じて、同年十月十一日の夜、堀越御所を急襲して、後継者茶多々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めた。隣国の乱れとはいえ、伊豆は堀越公方の直轄地であり、代々山内上杉氏の守護領である。その奪取はきわめて大胆であるばかりか、今川氏配下の一客将の挙としては無謀でさえある。しかし、この行動の軍事的指揮そのものは早雲の手によったものだが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいたようである。
今川氏親に計画を相談し、応援の兵三百を借り受け、手勢と合わせて伊豆南部へ押し渡ったとするもの。また、当時山内上杉氏と決定的な対立的立場にあった扇谷上杉氏との共同謀議、ないしは定正から今川氏親を通じての依頼があった可能性すら感じさせるのである。定正の家宰は太田道灌で、氏親の家督継承のときに早雲が対面をしたこともその遠い伏線となったのであろうか。
折しも早雲がわずかの兵で伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏は合戦中であり、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあった。相模にあって常時、背後を脅かされていた扇谷上杉氏にとって伊豆はかねてより縁の深かった今川氏の支配下nあることの方が望ましかったのかも知れない。しかし、守護職たる今川氏が、さしたる理由もなく公方や関東管領の領地を奪うわけにはいかない。
そこで、本籍不明な客将早雲こそ、実行者としてうってつけの人物であったのであろう。今川氏からの援兵もそのような背後関係を示唆するものであろう。また、他国の記録などには。この連係的戦略の実態を冷徹に見通していたものがある。甲斐の『妙法寺記』には、延徳三年には「北条御所遷化也」と公方の死を伝え、明応二年には「駿河国より伊豆へ打入也」と人名にはふれずに記している。これにより、実際の打入は定説の延徳三年ではなく、二年後の明応二年とする説もある。
ところで、早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注いでいる。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っている。とりわけ注目すべきは農民撫育や諸卒の士気高揚に意を尽くしているのである。ことに伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いている。さらに待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明している。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのである。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面もあった。そして、これらのことは、早雲の戦略戦術面に重要な作用をもたらしていたことであろう。早雲は戦略家、現実的政治家としても只者ではなかったのだ。
明応四年九月には、小田原に居城をおく大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪い取ってしまった。大森氏は上杉氏の被官であり、小田原攻めに先だって早雲は、今川氏親に対しては、伊豆援兵を上回る働きをし、また、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固めていた。
そして、早雲は大森氏より、箱根山に鹿狩りのために勢子を入れるという了解をとりつけると、武勇の家臣を選りすぐり、勢子に扮させて小田原城をめざした。そして「火牛の計」をもって、奇襲した。大森氏も防戦に務めたが、かなわず藤頼は岡崎へ落ちていった。こうして、早雲は敵味方双方にあまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城を乗っ取った。鮮やかな手口としかいいようがない早雲の手並である。
早雲の戦略センス
早雲の戦には衝動的な要素はなく、政略・戦略・戦術のいずれの分野においても、充分に計算されつくした用意周到なものである。来るべき事態に対する天性の読みと、老獪なまでの布石の跡がうかがえるのである。しかし、それのも増して重要なことは、人心の掌握と、とくに農民層の撫育による広範かつ総合的な戦力培養の姿勢である。農民の生産力向上、豊かな社会づくりが、結果的には領国の強化につながることを充分に理解し、実践したのである。
おそらく、早雲は東国に下向したとき、支配制度の乱れ、ことに農村の実情を無視した稚拙な支配を目のあたりにしたのではないだろうか。それに対する批判から生まれた早雲の「国づくりの理想」が、当時の被支配者からは「正義」として支持され、伊豆の堀越公方や、相模小田原に対する下剋上的な奇襲も、結果的には地元に歓迎されて、早雲の強固な地盤となっていった。
そういった意味で、早雲の理想にもとづく支配体制の確立こそ、旧体制社会に対する挑戦でもあり、早雲をして戦国大名の先駆けとなしたものであろう。
早雲の実行した奇襲の数々は、かれの後に続く北条家の伝統になったわけではない。本来、戦術面における奇襲というものはその時々の条件によって発想されるもので、時運と指揮官のセンスに大きく左右される。したがって、本質的に一定のセオリーをもった戦法として定着すべきものではないのだ。
早雲以後の北条氏に受け継がれた軍略があるとすれば、民政の充実と和戦両様のバランスをとる戦略上のセンスではなかっただろうか。そして、それらを忘れ、柔軟性と先進性を失ったとき、北条家は滅亡の淵に直面することになるのである。
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