後北条氏の出自と家系
●従来からある定説に沿って
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戦国大名は、その領国を維持し、拡張するために、軍備を整え、外交手腕をふるい。領国政治を行うためには、さまざまな政策を考案し実行した。が、同時に大名である領主の出自を粉飾し、宣伝することに心を用いた。これは、わが身のためでもあり、また、子孫のためでもあった。
戦国大名には、さまざまな毛並みのものがいた。そのうち、国司大名や守護大名から変貌してきたものは、みな、立派な系図や系譜を所有し、祖先以来の伝統と出自の正しさを誇ることができた。その点において守護代大名も守護大名に準ずる伝統の古さがあった。しかし、それ以下の土豪出身の大名となると、毛並みがぐっと落ちてくる。さらに下剋上三人男となると、どこの馬の骨とも判明しないなどといわれている。が、そういわれれば、いわれるほど、先祖の良さを宣伝し、わが家の系譜を粉飾する必要に迫られてくるわけだ。
では、北条早雲の場合はどうだろうか。早雲自身が先祖について語った自筆の書状によると「伊勢に在国して、
関と称した云々」とか、「伊勢平氏の関氏とも同族だった…」などと説明しているのである。本来は、
伊勢の土豪出身の素浪人であったと推察される早雲が、先祖のことを伊勢平氏の関氏の支族だったと、潤飾し、
宣伝しているのである。
・右図:北条早雲像
そして、駿河の守護大名今川義忠の内室となっていた妹を頼って、今川氏の食客となった。そのころ、今川家の当主・義忠が土一揆と戦って討ち死し駿河国が大いに乱れると、早雲は、義忠と早雲の妹北川殿とのあいだに生まれた竜王丸を助けて、内乱を鎮定し、その功労によって、一躍、駿河の興国寺城主となった。ついで、伊豆の堀越公方足利政知が病死し、その子茶々丸が家を継いだが家中に内訌が起こり、国内が乱れると、早雲はそれに乗じて茶々丸を討ち、堀越御所を焼き払い伊豆一国を手に入れ、韮山に城を築いて、これに拠った。
その後早雲は、関東進出を企て、箱根山で鹿狩りをすると触れて相模の小田原城を急襲し、城主の大森藤頼を遂い、小田原城を乗っ取った。さらに、晩年に及んで、相模三浦郡の豪族三浦義同を討って相模一国をたいらげ、小田原北条氏五代関東制覇の基を築いたのである。
こうなってくると早雲の子孫である小田原北条氏は、先祖の早雲が伊勢の土豪の出身の素浪人であっただけに、その出自を潤飾する必要に迫られた。そうして、出来上がったのが「北条系図」であった。しかも、この「北条系図」には、別本と異本があるが、いずれも、伊勢の土豪出身の素浪人説は否定している。これは、当然のことといってよいだろう。五代も続いた小田原北条氏の先祖が、土豪出身の一介の素浪人では困るからだ。したがって、北条系図をもとに粉飾された北条早雲の評伝にも、京都出身説と備中出身説との二説が成立したのである。
まず、京都出身説は、江戸時代末期の詩人。頼山陽の「日本外史」によって唱えられたもので、「伊勢系図」を典拠として、早雲の先祖を室町幕府に仕えた名族伊勢氏とし、早雲を伊勢備中守貞藤の子、新九郎長氏と断定したのである。つぎに備中出身説の場合は、江戸幕末の民間史家飯田忠彦の大著「野史」で唱えられたもので、「伊勢系図」に見える伊勢備中守盛定の子、新九郎盛時こそ早雲の前身であると説明している。早雲の生国は伊勢であるのに、頼山陽は京都とし、飯田忠彦は備中としている。しかも系図は後世に作られたものだから、あまり信用はできない。古文書や日記こそ根本資料となるものである、同時に、歴史人物の画像も根本資料のひとつにあげられる。
早雲の場合、箱根の早雲寺所蔵の北条早雲像によって窺われる早雲その人の容貌は、まさに伊勢の土豪のそれであって、京都の柔弱な武家の容貌ではない。それに常識で考えてみても、柔弱な武家に伊豆.相模の二国を切り取れるわけがないではないか。
一介の素浪人の身から、知恵と才覚で、自らの人生を切り開いた。そのような人物であってこそ、はじめて中世の停滞を打ち破り、戦国時代の扉を開き得たのではないだろうか。
■参考略系図
・諸系図より合成したもの
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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・丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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