北条氏の人々
北条幻庵/北条綱成/北条氏照/北条氏邦/北条氏規
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戦国時代、親子兄弟が相い争った例は数多ある。例えば、甲斐の武田信玄は父信虎を追放し、さらに嫡男義信を自害させた。駿河の今川義元は家督を争って兄弟で合戦、勝利して家を継いだ。九州の戦国大名、大友宗麟も父を倒して、家督を継いだものといわれている。織田信長などは、宗家織田氏をはじめ、叔父・兄弟など、尾張国内に割拠する一族との戦いに明け暮れた時期があった。
北条氏の場合はどうだったか。初代早雲には三人の男子があった。長男氏綱が家督を継ぎ、次男の氏時は葛山氏を継いだ。三男の長綱は幻庵と名乗り箱根権現別当となった。かれらが、争ったということはない。さらに氏綱の跡を継いだ氏康、その跡を継いだ氏政にも兄弟がいた。かれらの兄弟たちは、ある者は養子となって他家を継ぎ、ある者は支城主となって、北条宗家のために力を尽くしているのである。
関八州の大大名となった後北条氏の勢力拡大は、代々の当主の智謀もさる事ながら、兄弟・一族の結束も、その大きな力になったことは間違いない。
文武両道に達し、北条氏五代を生き抜いた名将
北条幻庵(長綱)
早雲の三男。生まれは明応二年(1493)、すなわち早雲が駿河国興国寺城から伊豆の堀越に討ち入り、足利茶多々丸を滅ぼし伊豆一国を手中におさめた翌々年である。父早雲は六十二歳であった。
少年時代、京に上り三井寺勘学院で修行した。これは、いずれ箱根権現別当になるためであったらしい。また三十歳前後にもふたたび上洛している。幻庵の高い教養は天性の資質もさることながら、この若い時代に十分に磨かれたのであろう。
二十六歳の折、父早雲が韮山で没したが、死に先だって与えられた彼の知行は四千四百六十五貫と一族中最大の領であった。三十二歳ころ、海実僧正のあとをうけて俗体のまま第四十世箱根権現別当となり、西相模・東駿河・伊豆の宗教界に大きな勢力をふるった。
一方、長兄氏綱はこのころ上杉氏を相手に武蔵で苦戦していたため、しばしば応援のために出陣している。氏綱が亡くなったとき、甥の氏康はまだ二十六歳の若さであったし、翌年には次兄葛山氏時も没したため、幻庵は一門の長老として氏康を後見し、以後の南関東の経営はこの両者のもとに行われた。
天文二十一年(1552)一月、山内上杉氏の最後の拠点上州平井城を襲い、これを陥したため上杉憲政はまったく関東に足場を失い、雪の三国峠を越えて越後に走り長尾景虎を頼った。ここに憲政から関東管理領の名跡と上杉の系図を受け継いだ景虎が執拗に関東に攻め込んでくるが、最初に平井で戦ったのも幻庵であった。
その後、実に四十年、兵馬倥偬のうちに過ごした。その間北条氏は氏康から氏政、氏直へと当主は替わって入ったが幻庵は歴代の後見をつとめ、さながら「黒衣の宰相」として、よく北条氏の全盛時代を築いた。
幻庵は武人としては、弓矢をとって無双の達人、馬はかの養由に勝るとたたえられたのみでなく、一面鼓の名手であり、尺八の芸はあまりに著名であったし、歌人として、あるいは連歌の道の心得も一流、さらに有名な「幻庵覚書」を著わし教育者としての風格も併せ持った、じつに多芸多才、文武兼備の名将であった。
そして、彼が天正十七年(1589)十一月、九十七歳の長寿で没してわずかに三週間後、豊臣秀吉の小田原攻めが始まり、半年後には百年の寿命がつきて北条氏は滅亡した。幻庵は、文字通り、後北条氏百年の歴史を身をもって生き抜いたということになる。
氏綱の女婿となり、北条氏の覇業に尽くした
北条綱成
戦国時代の武将で、今川氏親に属し遠州土方城を守った福島兵庫正成がいた。大永元年(1521)九月初め、氏親は福島正成を総大将に甲斐攻めを命じた。正成は駿河・遠江の連合軍一万五千を率い、富士川を北上して甲斐へ侵攻した。正成は武田信虎を滅亡寸前まで追いつめたが、結局敗れて討死した。
正成の討死後、その子綱成は北条氏のもとに身を寄せ、累功を重ねそれを認められて北条氏綱の女婿となった。このとき北条姓を与えられ、福島から北条に改姓した。すなわち、北条上総介綱成である。
綱成の旗指物は、黄色の練の四隅にそれぞれ八幡の二字を書いたもので、世に「地黄八幡」と呼ばれた。天文十五年の河越夜戦では、河越城の守将として上杉氏の攻撃をよくしのぎ、氏康勝利のために活躍した。その後、永禄七年の国府台合戦をはじめ、その「地黄八幡」の旗、はためくところ数々の勝利と栄光に輝いた。綱成は北条氏に忠を付くし、相模国玉縄城を守って、天正十三年(1587)に七十一歳で没した。北条氏滅亡に先立つ、三年前のことであった。
大石氏の養子となり、宗家を支えた
北条氏照
氏康の三男、生年については諸説がある。受領名は陸奥守であった。
氏照は、氏康によって攻められた大石定久の養子という形で大石氏の名跡を継いだため、自ら大石氏照を名乗ったこともあるが、ふつう、北条氏照で通っている。由井源三、あるいは大石源三の名で呼ばれることもある。
滝山城主で、のち八王子城主となる。さらに天正年間からは下野国栗橋城主をも兼ねた。天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めに降伏した兄氏政とともに切腹した。
藤田氏の養子となり、北条氏の上野経営に尽くした
北条氏邦
氏康の四男。受領名は安房守。なお、名乗りは氏郡と書くこともある。
氏照と同じく、生年は明確ではないが天文十年から十二年あたりまでの生まれであろう。兄氏照が大石氏の養子となったのと同様、氏康に降伏した天神山城主藤田左衛門尉重利(康邦とも)の養子となった。養子とはいっても、重利の娘との結婚であるから婿養子であった。古文書で見る限り、自ら北条氏邦を名乗った形跡はなく、藤田氏邦で通したようだ。
氏邦は少なくとも永禄七年(1564)以前頃から藤田氏の実権を受け継ぎ、武州鉢形城を拠点に支城領支配を行っている。
小田原征伐の直接の口火となった沼田城代猪股範直は氏邦の家臣であった。氏邦は、天正十年代には上野支配の中心的人物となっている。天正十八年の小田原征伐のとき、鉢形城に籠城し、前田利いえらに攻められて開城。のち、利家にともなわれて加賀国金沢に赴き、その地で没した。
北条氏で唯一、子孫が江戸時代に大名として続いた
北条氏規
氏康の五男。受領名は美濃守。生年は不明であるが、一説に天文十二年ともいう。仮にこの年に生まれたとすると、弘治元年(1555)二月、わずか十一歳ですでに三崎城主として「真実」の印を用いて支城支配をしていることになる。
伊豆韮山城主も兼ね、政治的手腕にたけ、とくに外交面で活躍している。幼児期、今川氏の人質として駿府にあた時、松平竹千代(徳川家康)の人質屋敷と隣同士という縁から、長じても家康と懇意で、天正十五年(1587)以後、豊臣秀吉との交渉にあたり、上洛したりして北条氏存続のための手を尽くしている。
小田原征伐後、兄の氏直は高野山に上り、文禄元年(1592)に没してしまった。その後、北条氏の家督は氏規に伝えられた。つまり、氏規は秀吉に召し出され、河内国丹南郡のうつに六千九百八十石を宛行われ、その子氏盛を経て氏朝の時、一万一千石となり、狭山藩よして大名に列した。
さまざまな人生を歩んだ北条氏一族
北条氏忠/氏堯/氏秀
北条氏忠
氏康の六男。下野佐野の戦国大名佐野宗綱の養子となった。佐竹氏から養子をもらうべきだとの意見もあったが、敵対関係にあった北条氏から氏忠が入った。このとき、佐竹派の天徳寺了伯が出奔、秀吉に接近した。小田原征伐に際して了伯は、秀吉に関東の地形・城廓などを詳細に描いた絵図を差し出し、自ら攻め手の大将となって佐野城を攻めている。
佐野氏を継いだ氏忠は、のちに相模足柄城主となり小田原の役で宗家北条氏とともに滅びた。
北条氏堯
氏康の七男。北条幻庵の家を継いだ。武蔵小机・駿河戸倉城主を兼ねた。
北条氏秀(上杉景虎)
氏康の八男。最初、武田信玄の養子となり、のち上杉謙信の養子となった。上杉氏に入ってからは景虎を名乗った。天正六年(1578)謙信が死去すると、もう一人の養子景勝と家督相続をめぐって争った。世にいう「御館の乱」である。
景虎は景勝と越後を二分して争ったが、期待した兄氏政の援軍もなく、翌年二月、景勝の猛攻撃を受けて、御館は落城。敗走した景虎は、三月、鮫ケ尾城で景勝に討ち取られた。
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