後北条氏の版図
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早雲は、妹が今川義忠の室となり、子竜王丸を生んでいたことからその食客となり、義忠が不慮の死を遂げると竜王丸擁立反対派との戦いを経て、今川七代の家督に据えることに成功した。その功によって、駿河国富士郡に所領を与えられ、興国寺城に拠った。ここに初めて一国一城の主となったのである。
延徳三年(1491)、たまたま伊豆の堀越公方の足利政知が死に、政知の子茶々丸が継母と異母弟を殺すという事件が持ち上がり、早雲はすかさず今川氏親から駿河衆三百人を借り、葛山氏堯らの援軍を得て、わずかの軍勢で堀越御所を急襲し、伊豆を奪ってしまった。
伊豆を平定した早雲は韮山に新しく城を築き、そこを本拠とした。のち、明応四年、小田原城の大森藤頼を追って相模への第一歩をしるし、それから十七年たった永正九年、ようやく三浦義同の籠る岡崎城を落とし、同十三年、三浦半島の新井城に義同・義意父子を討ち相模国の大半を平定することができたのである。しかし、そのとき早雲は八十五歳。三年後、韮山で没した。
以後、戦国大名後北条氏は、氏綱−氏康−氏政−氏直と五代にわたって、上杉氏をはじめ里見氏、佐竹氏らと
戦いながら、関東八州にその勢力範囲を拡げていくことになる。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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