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名 前 小 伝
信康  永禄二年生まれ。母は築山殿。幼名は竹千代と称す。はじめ駿府にいたが、ちち家康が今川氏より独立したのを機会に、今川氏の人質となる。桶狭間の戦より後の永亨六年、織田信長の女徳子と婚約し、岡崎にて同十年婚姻する。
 元亀元年岡崎城主となり、元服して岡崎次郎三郎信康と号す。天正元年初陣を飾り、のち高天神城の戦に諸軍を指揮する。同七年、武田勝頼と通じたとの疑いにより、遠江国二俣城にて自害を命じられ没す。享年二十一歳。
亀姫 永禄三年、駿府に生まれる。母は築山殿。同五年、今川氏の人質から解放されて、岡崎の家康のもとに移った。そののち天正四年、信長の媒酌で三河新城城主奥平美作守信昌に嫁いだ。ときに十七歳。慶長六年、信昌は美濃加納に移る。そこで亀姫のことを加納御前という。このとき化粧料三千石を賜った。元和元年、信昌没後、落飾して盛徳院と称する。
督姫  永禄八年生まれ。天正十一年、十九歳のときに北条氏直に嫁いだが、これは武田氏なきあとの甲斐国を両氏が争った際に結ばれた和議の条件の一つであった。その後、天正十八年に豊臣秀吉の征伐にあって北条氏は滅びた。しかし、氏直は一万石を賜って存命したが、翌十九年に病死。こののち徳川家に帰った。
 文禄三年、秀吉の媒酌で池田輝政に再嫁し、そこで三男二女をもうけて、池田氏繁栄のもとを開いた。輝政の姫路移封後は播磨御前といったという。慶長十八年、輝政没後、落飾して良正院と称して駿府に下向した。元和元年、姫路で没した。
秀康  天正二年生まれ。母はお万の方。幼名を於義丸といい、本多重次に養育され、同七年の兄信康没後、一万石を賜る。同十二年の小牧・長久手の戦の講和の際に、人質として上京、のち豊臣秀吉の養子となり、羽柴三河守秀康と改め、従五位侍従に任ぜられる。同十八年、下総国結城の名紋結城晴朝の養子となり、その家を継いで結城三河守と号す。
 文禄元年、肥前警護のために出張、同三年帰陣して伏見に館す。慶長五年の関ヶ原の戦の際には、関東にあって上杉氏の西上を防ぎ、こののち松平姓に復して。越前北荘、すなわち福井六十七万石をもらう。同八年従三位参議、同十年正三位中納言となる。同十二年没、享年三十四歳。
秀忠  二代将軍。天正七年家康の三男として浜松城に生まれる。幼名は長松。のち竹千代君と称す。御台所は浅井長政の三女お江与。秀忠が家康の後継者としての地位に就きえたのは、天正七年に英邁な長兄信康の悲劇の自害もあるが、秀忠の性格そのものによるところが大きい。次兄秀康は、慶長五年の小山の陣で石田三成が蜂起したことを聞き、「此一乱に乗じて、我こそ家を継ぎ天下に旗を立てん」と野望をもった。弟忠吉も「此度こそ初陣の高名して、世にも人にも我武功をしらしめんとの気象あらわ」した。だが秀忠は「憂悶の御思念、ふかく」あらわしたという。
 秀忠は幼少のころより、仁稿恭謙の徳をもって家康の教えや命令をよく守るばかりでなく、縦悉の挙動がなかったので「神祖の大統をうけ給ひ、継体守文の任に当」るにふさわしい性格・資質の保持者として、家康や家康の老臣どもからその後継者としての支持を得たのである。
 慶長十年、家康が駿府に隠居して大御所としての政治の実権を握る一方、秀忠が江戸で将軍として政治を執っても、二元政治による軋轢が生じないばかりか、かえって父子による表裏一体の強力な政治体制が円滑に運営され、豊臣氏の影響が少なからず残っていた時期に、徳川三百年の基礎を固めることができたのである。
 慶長五年、石田三成の蹶起により、小山の陣より秀忠が東山道軍の総指揮者として上方に向かうとき、真田昌幸の籠る上田城攻めに手間取り、旗下の大軍が関ヶ原の決戦に間に合わず、家康の激怒を買ったが、この上田城攻めは、大切な戦機を逸した融通姓のない秀忠を示しているが、反面行く手を阻むものをひとつひとつ確実に潰して、後顧の憂いを断ったのちに前進するという、着実で手堅い秀忠の性格を表わすもので、天下平定後の徳川氏にとっては、よく家康の政治を継承するものとして、秀忠が後継者に選ばれたのである。
忠吉  天正八年、四男として浜松城に生まれる。幼名は福松丸。三河国東条城一万石を領し、忠康と称する。十年駿河国沼津城四万石を賜る。十八年京都において元服。従五位下下野守に任ぜられる。文禄五年、武蔵忍城十万石に移り、井伊直政の女を娶る。
 慶長五年、上杉征伐に従う。石田三成の挙兵により東海道軍の先発隊として西下、清洲城に入る。関ヶ原の合戦で、島津義弘の郎等と格闘し首級を挙げたが、負傷する。のち、軍功により尾張五十七万石を賜り、清洲城に住む。慶長十年、従三位、左近衛権中将に任じられ、十一年たびたびの腫物のため薩摩守忠吉と改名する。十二年江戸に参府したが病状悪化、家康の見舞を受ける。秀忠からも懇ろな配慮を受けるが、三月没する。享年二十八歳。
振姫 天正八年生まれ。慶長五年、蒲生秀行へ嫁す。同十七年秀行死去の後、元和元年浅野長晟へ再嫁。同三年光晟を生んだが産後没する。享年三十八歳。
信吉  天正十一年、家康の五男として生まれる。幼名は万千代丸。母は武田家の旧臣秋山虎泰の女。外戚の因みにより武田を名乗り、七郎信義と称する。成人後は松平七郎信吉と名乗る。信という字は武田氏代々の通り字である。天正十八年下総国小金に三万石を賜り、文禄元年同国佐倉城主となり、四万石を領する。のち加増されて十万石となる。生来病弱であったため、常に引き籠りがちであった。
 慶長五年関ヶ原合戦のとき、江戸城の留守居として西の丸に留まる。同七年常陸国水戸城に移り、加増されて二十五万石を領する。加冠に至っても多病のため官位を授けられず無位無官。慶長八年水戸にて没。二十一歳。
忠輝  文禄元年、遠江浜松城に生まれる。幼名は長千代。生後まもなくその色黒で醜いところから父家康に嫌われて棄てられ、皆川広照に拾われて養育されたという逸話がある。しかしその一方、幼時の忠輝は豪気英邁でった兄信康に似たところがあり、家康が感嘆したとの伝えもある。
 慶長四年、武蔵深谷一万石の長沢松平家を相続する。同七年下総佐倉で七万石を賜り、従五位上総介に任官。翌八年には信濃松代十二万石となる。このとき傳役皆川広照が同国飯山に入城した。十年、従四位下少将に昇り、家康の名代として大坂に豊臣秀頼を訪問する。十四歳であった。十一年、堺の豪商茶人今井宗薫の媒酌で伊達政宗の女五郎八姫を娶る。
 こののち忠輝は重臣らと抗争し、忠輝の不行跡を重臣らが家康に訴えた。同十四年に忠輝の反論が通り。「上総介殿の三臣」と称された皆川広照、山田重辰、松平清直らは切腹・改易となる。十八歳のときの出来事であり、その真相は詳らかではない。翌十五年、越後高田四十五万石を賜り、以後越後少将と称す。
 十九年、大坂冬の陣が起こり、江戸城の留守をした。翌年の夏の陣には参戦して大和口の方面に備えた。このとき、忠輝が大坂方に内応したとの噂が立った。理由は敵の主力に遭遇し味方の諸将が奮戦したとき、その機会を逸してなんらの戦功も立てなかったことにある。しかし、これは無事に過ぎたが、こののち忠輝の運命は急旋回する。
 夏の陣の帰途、近江口において幕臣長坂信時を家臣に命じて斬ってしまい、これが原因となって父家康に勘当されてしまうのである。元和二年家康没後、忠輝の家中は再度の騒動を起こし、これが命取りになって忠輝の松平家は改易に処せられ、忠輝は伊勢の朝熊に配流となる。二十五歳であった。以後、飛騨高山、信濃諏訪と転じ、配流の身のまま諏訪で九十二歳の生涯を閉じた。
義直  慶長五年、家康の九男として出生。母は山城八幡宮の神官志水宗清の女亀。幼名五郎太。慶長八年甲斐二十四万石。九年従五位下、さらに従四位下右兵衛督。十二年尾張へ転封。清洲城主。十五年名古屋築城、居城と定める。十六年従三位参議右近衛中将。大坂両度の陣にも参戦した。
 慶長二十年浅野幸長の女春姫と結婚。成婚後信濃木曽と美濃の内にて加封を受ける。元和三年権中納言。五年美濃で増封され総高六十一万九千五百石。寛永三年従二位大納言に昇進。尾張家の極官となる、慶安三年没、享年五十一歳。
 義直は、尊皇の志厚く、孝心にも富み、学問を好んだ。聖廟を名古屋城内に創建、神道にも通じた。知行割り、立法、税制改革、治水、農商工業の発展、武事の振興など、藩政の基礎を固めた名君であった。
頼宣  慶長七年、家康の十男として伏見城に生まれ、幼名は長福丸という。同八年十一月水戸二十万石を賜る。十一年に元服し頼将と称し、常陸介に任じられ、従四位下に叙せられた。同十五年春に駿河・遠江五十万石に改封。同十六年右近衛権中将と参議に任ぜられ、従三位に叙せられた。元和二年に遠江城から駿河城に移り、駿河宰相と称した。
 元和五年、紀伊国に入国し、五万石を加増され、紀州と勢州のうちを合わせて五十五万石を支配。紀伊中納言と称し、寛永三年には従二位に叙せられ大納言に任ぜられた。紀伊入国後の頼宣は前藩主浅野氏の後を受けて、和歌山城下を整備し、諸法令を発し、初代藩主として藩政の基礎を確立した。
頼房  慶長八年、伏見城に生まれる。一つ違いの兄頼宣と同じくお万の方の出生。幼名は鶴千代。慶長十年、三歳で常陸下妻十万石を与えられたが伏見におり、同十二年駿府に移る。十四年水戸二十万石を受封、水戸徳川家の初代藩主となる。
 慶長十六年、元服し頼房を名乗り、従四位下、左近衛少将に任ぜられる。元和二年父家康の死後、水戸から 江戸に移り住み、以後、領地と土地を直接支配することなく、江戸邸にあって国元の城代、家老、奉行らに指図して藩政を執らせるという定府制がとられ、これが以後水戸家の特色よなった。
 頼房の時代に、水戸藩の体制は確立したが、水戸城の修築、城下町の開設、領内総検地、藩法の制定など、多くの施策がすすめられた。人柄は剛毅勇武で、古の良将の風格があった。しかし、武勇一点張りでもなく、学問の振興にも心をもちいた。寛永三年、従三位権中納言に昇進、寛文元年、五十九歳で死去。
補遺 ●松平民部
天正十年生まれ。家康四十一歳のときの子であるため、俗忌を避けて兄秀康の養子とされる。大坂役には忠直に属して大いに軍功をたてたという。凱旋後、三十四歳で病死。
●小笠原権之丞
忠輝の兄に当たるという。小笠原越中守広朝の養子となり、近藤石見守の女を妻とする。のち剃髪して語石と称す。慶長十九年、キリシタン信者の故をもって家康に放逐され、大坂城に入って夏の陣で戦死したという。
●松千代
文禄元年生まれ。慶長元年長沢康忠の養子となり、同四年没する。六歳だったという。
●仙千代
文禄四年生まれ。平岩親吉の養子となり、慶長五年に没す。享年七歳。
●松姫
文禄四年に生まれる。慶長三年、四歳で没する。
●市姫
慶長十二年生まれ。母の胎内にあるときに伊達政宗の子忠宗との婚約が成る。しかし、慶長四年、四歳で没する。

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