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●元号●西暦 ●できごと
天文11年1542 ・岡崎城主松平広忠の長男竹千代として生まれる
 (母於大の方、水野信元の異母妹)
天文13年 ・刈谷城主水野信元、今川義元に背いて織田信秀に属す。
 よって、広忠、妻於大の方を離別する。
天文16年 ・竹千代、人質として駿府へ送られる途中、
 田原城主戸田康光に奪われ、織田信秀の元へ送られる。
天文13年 ・広忠、家臣岩松八弥に暗殺される。
・今川義元、織田信広を捕え、竹千代と交換する。
天文24年 ・竹千代、元服して義元の偏諱を受け、名を次郎三郎元信を改める。
弘治三年1557 ・元信、今川義元の養女築山殿(関口氏)を正室に迎える。
永禄二年1559 ・元康(元信改め)の長男信康、駿府に生まれる。(母は正室築山殿)
永禄三年 ・織田信長、桶狭間の合戦で今川義元を破る。
・元康、駿府より岡崎城へ帰る。
永禄六年 ・元康、名を家康と改める
・三河一向一揆蜂起し、家康の諸将これに加わる。(翌年三月平定)
永禄九年 ・家康、徳川姓を名乗ることを勅許され、
 従五位下に叙し、三河守に任ぜられる。
元亀元年1570 ・信長とともに浅井長政、朝倉義景と近江国姉川で戦い、
 これを破る。
・岡崎城を長男信康に譲り、
 かねて築城中の引間に移り、名を浜松と改める。
元亀三年 ・武田信玄、家康を遠江三方ケ原に破り、浜松城に迫る。
天正二年1574 ・次男於義丸(のち秀康)、三河に生まれる。
天正三年 ・信長とともに武田勝頼を三河長篠に破る。
天正七年 ・三男長丸(のち秀忠)、浜松に生まれる。
・長男信康を、信長の命により遠江二俣城において自殺させる。
天正10年 ・信長の軍とともに甲斐に侵攻する。
 武田勝頼田野に自殺し武田氏滅亡する。
・明智光秀、信長を本能寺に殺害する。
 家康、伊賀越えの危機を脱出そて、岡崎に帰る。
天正12年 ・尾張長久手に羽柴秀吉軍と戦い、秀吉の先鋒を破る。
・秀吉の申し出により、次男於義丸を秀吉の養子とする。
天正18年 ・三男長丸、秀吉に謁し、元服して名を秀忠と改める。
・秀吉、養子の秀康の結城晴朝の家督を相続させ五万石を与える。
・家康、関東に転封され江戸城に入る
文禄四年1595 ・秀忠、秀吉の養女お江与の方(浅井長政三女)を正室に迎える。
慶長三年1598 ・豊臣秀吉没する。
慶長五年 ・家康、江戸を発し、東西両軍関ヶ原に戦い、
 石田三成らの西軍大敗
する。
慶長八年 ・二月、征夷大将軍に補せられ、江戸幕府を開く
慶長九年 ・秀忠の次男竹千代(のち家光/母はお江与の方)、江戸に生まれる。
慶長12年 ・家康、駿府を隠退の地として、江戸城から移る。
慶長16年 ・豊臣秀頼と二条城で会見する。
慶長19年 ・方広寺大仏殿の鐘銘の語が、家康を呪詛するものとして
 問題となる。
・11月、大坂冬の陣はじまる。(12月に和議成立)
慶長20年 ・四月、大坂夏の陣始まる。
・五月、大坂落城し秀頼・淀君ら自殺して豊臣氏滅亡する。
元和二年1616 ・七十五歳で没する。遺言により、
 吉田流の唯一神道の儀式をもって久能山に葬られる。



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