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尼子経久
戦国大名への道をひた走り、中国地方に猛威をふるう。



 尼子氏は、持久が出雲守護佐々木京極氏の守護代として入部し、その子清定は京極氏を支えて、守護代としての任務を遂行、また、出雲国内を東奔西走して国内の諸豪族と戦った。とくに清定の奮戦と両国経営における手腕は、やがて戦国大名化してゆく出雲尼子氏の基礎を十二分に築いた。
 しかし、清定の時代はいまだ守護京極氏の権威が背後にあったことは否めない。そして文明九年(1477)、清定の子経久が二十歳の若さで尼子氏の家督を継ぐ。この経久こそ、守護京極氏を排除し、出雲国内の諸豪族を従えて、尼子氏の戦国大名化に成功した人物である。

●経久の挫折と再起

 文明十四年(1482)十二月、室町幕府は京極政経と尼子経久に重大な指令を発した。すなわち、「出雲・隠岐両国の段銭を、京極持清のとき、その被官人の要求によって免除したのをよいことにして、公役以下を勤めなくなったのはけしからん。そこで免除を廃し、永亨年中の例のとおり、諸役を勤めるように京極政経に仰せつけたから、さよう心得よ」というものであった。
 だが、二十五歳という若さの経久は、これを蹴って寺社本所領を押領し、段銭を納めず、公役を怠った。経久は父清定以来、出雲国内の諸豪族は尼子氏に従うものと思い、自分の行為は諸豪族に支持を得るものと予想していたようで、このことも、幕命違反の挙に出た背景にあったと考えられる。
 幕府は、横着を決め込む経久に対して討伐の軍令を発した。文明十六年三月のことであった。
 これに対して、三沢・三刀屋・朝山・広田・桜井・塩冶・古志らの国侍は幕命を奉じて尼子経久を追放し、幕府は、塩冶掃部介を守護代に定めた。これら、国人たちはすべて出雲中部から西部にわたり、経久に対する反感と幕命が一致したというわけであった。経久の予想は甘かったといわざるを得ない。
 幕府と主家に追放された経久は野に隠れ、富田城奪還を企てたことはいうまでもない。文明十七年(1485)神無月の末、経久は旧臣の山中入道をを訪れ、富田城奪回の陰謀を打ち明けた。入道はこれに賛成し、離散した一族被官の糾合につとめ、亀井・山中・真木・河副らが集まってきた。さらに経久は河原者の集団である賀麻党も味方につけた。
 翌十八年正月元日、賀麻党七十人ばかりは、恒例によって新年を賀す千秋万歳を舞い富田城中に入った。一方、大晦日から城の裏手にひそんでいた経久ら五十六名は、表門の賀麻党としめし合わせて城中に切り込んだ。城将塩冶掃部介はさすがに落ち着き、防戦につとめたが、不意をくらったこともあって、ついに妻子を刺し、みずから火炎に包まれた。
 戦いがすんで夜があけ、大勝利を得た経久は、敵方の首を富田河畔にさらした。そして、城下町に大賀宴を張り、山中・亀井・真木・河副を執事とし、賀麻の一党に莫大な恩賞を与えた。こうして、経久は富田城将に返り咲いたのである。時に二十九歳であった。
 あらためて富田城主となった経久は、月山西南部の三沢氏に眼を向け、長亨二年(1488)三月機略をもって降伏させた。これをみて、飯石郡北部の三刀屋氏、同南部の赤穴氏をはじめ、他の国人、諸将らもまた風をのぞんで、経久の軍門に降り、国内統一戦はひとまず落着した。
 かくて、有力国人を味方につけ、経久の前途は明るく洋々たるものとなり、戦国乱世の真只中に突き進んでいくことになる。

●尼子政権の成立

 ところで、経久の富田城奪回は、守護京極氏の守護代塩冶氏を討ち取ったというものであれば、これは幕府や守護に対する反逆であり、尼子氏の戦国大名への途は下剋上ということになる。ところが、尼子氏の出雲国支配権は守護京極氏の一国支配権の継承とし、また尼子氏と京極氏は対立したのではなく、京極氏との連続面が強かったとする研究・論文が発表されている。これによれば、尼子氏の場合は下剋上ではなかったということになる。  たしかに出雲国は神国であり、保守面が強かった。カタチとしては京極氏から尼子氏におだやかに引き継がれたかもしれないが、実質は下剋上であったことに変わりはない。とはいえ、尼子経久の戦国大名へのスタートは、のちの毛利元就の場合と比べて、かなり有利な立場からその一歩を踏み出した、とはいえそうだ。
 ところで、永正五年(1508)十月、京極政経は「孫の吉童子丸」に、惣領職のこと、出雲・隠岐・飛騨三ケ国守護職のこと、諸国諸所領などを与えるという譲状をしたためた。そして、この吉童子丸への譲状と代々の証文を、尼子経久と多賀伊豆守に預けるというのである。
 京極氏代々の文書は、尼子氏の子孫に伝えられ、いまに『佐々木文書』として残っている。これは政経の死後、尼子氏は京極氏の家督と守護職を引き継いだということを裏付けるものと考えられる。たしかにカタチではそうみえるが、実際は経久は多賀伊豆守を押し退けて、吉童子丸へ相伝すべき文書を自己のものとし、吉童子丸へ渡さなかったばかりでなく、吉童子丸のその後の行方は知れなくなっているのである。  かくて、永正五年、尼子政権は成立したのであった。
・颯爽とした束帯姿の経久像

●経久の版図拡大

 永正九年(1512)、経久は古志為信の大内氏への反乱を支援している。同十五年弟尼子久幸は東隣伯耆国の南条宗勝を攻め、西部では出雲大原郡阿用城主桜井入道宗的を討った。しかし、この戦いで経久の長男政久が戦死した。政久は笛の名手で花も実もある武将として将来を嘱望されていた人物だけに経久と尼子氏にとっては痛恨事であった。
 大永元年(1521)から石見に侵入し、同三年には浜田に近い波志浦を攻略した。と同時に南下して安芸へも進撃し、同じ三年六月、大内氏の安芸進出の拠点、西条の鏡山城を奪った。この戦は尼子氏の先鋒毛利元就の調略による勝利であった。
 このように山陰地方に興った政治勢力が山陽側の瀬戸内海地域まで拡大したことは西中国では最初で最後のことである。中国地方山間部は、砂鉄を原料とするタタラ製鉄の生産地帯で、尼子氏の権力基盤に鉄の威力があったことはいうまでもない。経久はまた美保関の代官職をもち、船役を徴収し、宇竜浦の畝役徴収権も尼子氏の手に握られていた。さらに島根半島の東西の良港の問屋支配権を握り、朝鮮との交易があったことも見逃せない。
 明けて大永四年五月、経久の伯耆経略は「大永の五月崩れ」とか「伯耆の総崩れ」といわれるように、伯耆の国人は因幡や但馬に流浪した。しかしまた大内氏の反撃が開始されるのもこの年のことで、大内義興・義隆父子は陶興房らの重臣を率いて安芸に進軍し、南下する尼子軍と戦いを交えた。翌大永五年、吉田郡山城主の毛利元就は、尼子と断って大内氏の陣営に入った。
 亨禄元年(1528)七月、、義興が没し義隆が家督を継ぎ大内氏の当主となった。こうして安芸・備後の山川は、尼子と毛利の決戦場に移行することになる。天文元年(1532)大内軍は九州動乱によって渡海し、大友・少弐の連合軍と対した。
 まさに尼子氏の反撃のときであった。しかし、ここに経久にとって一代痛恨事が出現した。三男で塩冶氏を継いでいた興久の反逆である。
人間経久の逸話
 経久は天性無欲正直の人で、訪れた人が経久所持の物をほめると、墨跡・衣服・太刀・馬そのほか何でも与えた。それで、再び訪れる人は、ほめないことにしたという。ところがあるとき、人が庭の大きい松をほめた。翌日経久は家来にこの松を掘らせ、その人に贈ろうとした。しかし、松が大きすぎるため城内より出すことができない。そこで経久は「その松をこまかく切って遣わせ」と命じた。世人は惜しいことをと言い交したが、経久は頓着しなかった。
 没後、十年ほどたった天文二十一年の成立と推定される『塵塚物語』の「尼子伊予守無欲の事」に、作者は「ふしぎというもおろか(形容できないの意)なる人なりとぞ」と記している。足利尊氏も無欲で有名だったが、これは武将としての一つの資質であって、経久が十一州の大守と仰がれた原動力でもあっただろう。
 また、相国寺鹿苑陰塔主であり経久とも縁が深かった惟高妙安は、『玉塵抄』のなかで、経久は瓜の皮を厚くむくことをきらい、自分でむいて喰ったほどの「シワイ人」つまりけちな人で、不必要なものをきらったが、これは「王に似た心もち」の人であったからとのべている。



●晩年の失意と引退

 興久は、経久から三千貫を与えられ、上塩冶の要害山城主として西の守りを務めていた。しかし、興久は三千貫が不足で、尼子氏の宿老亀井安綱(秀綱か)を通して「原手郡七百貫を賜りたい」と要望した。これに対して経久は備後の地一千貫を与えたが、興久は大原の地七百貫をもらえなかったのは亀井の讒言によるとし、その身柄引き渡しを要求し反乱となった。
 興久は宍道湖東端の佐陀城・末次城の戦いに敗れ、妻の実家、備後甲山城の山内直通を頼って落ち延びたが、結局自刃して果てた。首は尼子氏へ送り返され、わが子ながら憎き興久の首を見て老後の鬱憤を晴らそうとした経久であったが、あまりに変わり果てたその姿をみて腰を抜かし「有れども無きが如く」になったと『陰徳太平記』は伝えている。
 天文六年(1537)尼子経久は第一線を退き、嫡孫詮久(晴久)が尼子氏の当主となり、経久はその後見となった。
 生涯を戦陣のなかに過ごし、長男・三男を失い、自分が築いた尼子王国にもようやく落日の兆しが見えはじめるころであった。経久は領土拡大に力を尽くしたが、内政面と一族の融合に成功したとは、いえそうにない。このことは、のちに中国地方の覇者となる毛利元就の場合と比較すると、そのことがよく見て取れる。とはいえ、経久と元就の人物に対する好悪となると、経久の方に好漢を感じる人も多いのではないだろうか。
・寂しさを感じさせる晩年の経久像






戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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