●経久の版図拡大
永正九年(1512)、経久は古志為信の大内氏への反乱を支援している。同十五年弟尼子久幸は東隣伯耆国の南条宗勝を攻め、西部では出雲大原郡阿用城主桜井入道宗的を討った。しかし、この戦いで経久の長男政久が戦死した。政久は笛の名手で花も実もある武将として将来を嘱望されていた人物だけに経久と尼子氏にとっては痛恨事であった。
大永元年(1521)から石見に侵入し、同三年には浜田に近い波志浦を攻略した。と同時に南下して安芸へも進撃し、同じ三年六月、大内氏の安芸進出の拠点、西条の鏡山城を奪った。この戦は尼子氏の先鋒毛利元就の調略による勝利であった。
このように山陰地方に興った政治勢力が山陽側の瀬戸内海地域まで拡大したことは西中国では最初で最後のことである。中国地方山間部は、砂鉄を原料とするタタラ製鉄の生産地帯で、尼子氏の権力基盤に鉄の威力があったことはいうまでもない。経久はまた美保関の代官職をもち、船役を徴収し、宇竜浦の畝役徴収権も尼子氏の手に握られていた。さらに島根半島の東西の良港の問屋支配権を握り、朝鮮との交易があったことも見逃せない。
明けて大永四年五月、経久の伯耆経略は「大永の五月崩れ」とか「伯耆の総崩れ」といわれるように、伯耆の国人は因幡や但馬に流浪した。しかしまた大内氏の反撃が開始されるのもこの年のことで、大内義興・義隆父子は陶興房らの重臣を率いて安芸に進軍し、南下する尼子軍と戦いを交えた。翌大永五年、吉田郡山城主の毛利元就は、尼子と断って大内氏の陣営に入った。
亨禄元年(1528)七月、、義興が没し義隆が家督を継ぎ大内氏の当主となった。こうして安芸・備後の山川は、尼子と毛利の決戦場に移行することになる。天文元年(1532)大内軍は九州動乱によって渡海し、大友・少弐の連合軍と対した。
まさに尼子氏の反撃のときであった。しかし、ここに経久にとって一代痛恨事が出現した。三男で塩冶氏を継いでいた興久の反逆である。
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●人間経久の逸話
経久は天性無欲正直の人で、訪れた人が経久所持の物をほめると、墨跡・衣服・太刀・馬そのほか何でも与えた。それで、再び訪れる人は、ほめないことにしたという。ところがあるとき、人が庭の大きい松をほめた。翌日経久は家来にこの松を掘らせ、その人に贈ろうとした。しかし、松が大きすぎるため城内より出すことができない。そこで経久は「その松をこまかく切って遣わせ」と命じた。世人は惜しいことをと言い交したが、経久は頓着しなかった。
没後、十年ほどたった天文二十一年の成立と推定される『塵塚物語』の「尼子伊予守無欲の事」に、作者は「ふしぎというもおろか(形容できないの意)なる人なりとぞ」と記している。足利尊氏も無欲で有名だったが、これは武将としての一つの資質であって、経久が十一州の大守と仰がれた原動力でもあっただろう。
また、相国寺鹿苑陰塔主であり経久とも縁が深かった惟高妙安は、『玉塵抄』のなかで、経久は瓜の皮を厚くむくことをきらい、自分でむいて喰ったほどの「シワイ人」つまりけちな人で、不必要なものをきらったが、これは「王に似た心もち」の人であったからとのべている。
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