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月山富田城
尼子氏歴代が居城とし、山陰・山陽制覇の拠点となった。

 尼子氏の本城で、出雲国能義郡広瀬に在った山城。富田城が本来の呼称で、月山城と称するのは雅名である。 飯梨川流域平坦部の頂点に位置する勝目山(192m)の上にあり、北側と南西部を深い谷で隔てられた天然の要害 であった。
 頂上部には本丸がおかれ、北西方へ二の丸・三の丸・袖ケ平と続き本城中心部の曲輪をなす。さらに、北西方標高110mぼ中腹に御殿平とよばれる平坦地の曲輪があり、尾根の先端、標高60mのところに千畳平・馬場曲輪・奥書院などがあった。北方菅谷口を大手とし、西方塩谷口を搦手とする。  現在、本丸・二の丸間の空堀・石垣、および中腹諸曲輪の石垣がよく残っているが、建築物は残っていない。 天守閣の有無についても不明である。
・石垣が見事な山中御殿平
 築城のはじめについては確実な史料がない。鎌倉時代の佐々木氏以来、代々出雲の守護がこの城を居城としたと伝える。戦国時代に至り、出雲守護代となった尼子氏が代々居城とした。文明八年(1476)土一揆の襲撃を受けたが、時の当主尼子清定は奮戦してこれを退けた。同十六年、その子経久は守護代を免ぜられ、塩冶掃部介が代わって富田城に入ったが、翌々十八年正月、経久は亀井・山中らの旧臣を手勢として、鉢屋党の協力を得て、かれらを賀春の体を装って城に入れ、みずからは後門より侵入して火を放ち、塩冶掃部介を自害二追い込み城を回復した。
 以後、経久は富田城に拠って、国人の三沢・三刀屋・赤穴氏らを支配下にいれ、出雲一国に猛威を振るい、さらに進んで因幡・伯耆・隠岐・石見を経略し、さらに安芸・備後・備前・美作・備中・播磨にまで手を延ばすに至って、山陰・山陽十一ケ国の大守と称せらる大大名となった。
 経久は嫡孫晴久に家督を譲ったが、晴久は天文九年(1540)安芸国で勢力を伸長してきた毛利元就の居城郡山城を 大軍をもって攻めた。しかし、毛利氏と大内氏援軍とによって敗れ翌十年富田城に還った。この年、経久は 八十四歳をもって没した。同十二年春、大内義隆は毛利元就らとともに富田城を攻めたが、晴久は大いに戦って これを撃退し、ふたたび尼子氏は勢力を盛り返した。同二十一年には、出雲・隠岐・以下山陰・山陽八ケ国の 守護に任ぜられた。ところが、永禄三年(1560)晴久は四十七歳(異説あり)の壮年で頓死した。
 晴久の死後、嫡男義久が跡を継いだが、尼子氏の勢力はようやく衰えをみせた。一方、大内氏に叛して義隆を 殺した陶晴賢を厳島において破り、大内氏をも滅ぼした毛利元就はその勢力を拡大。そして、元就は全力をあげて 出雲に侵入、尼子方の諸城を陥れて富田城に迫った。そして城の平站線を断ったあと、毛利勢は永禄八年四月、 尾小寺口・塩谷口・菅谷口の三面より総攻撃をかけた。尼子氏はよく防戦して一旦は毛利勢を押し返した。
 これによって、元就は包囲作戦をとり、翌九年になると城中食糧が欠乏し、士気阻喪して投降・自殺者が続出し、同年十一月二十一日に義久はついに毛利氏に降伏して城を出た。ここに経久以来山陰・山陽に威勢をはった尼子氏は没落。富田城は毛利氏の手に帰した。
 この後、尼子の遺臣山中鹿介らが、尼子勝久を戴いて、城を奪回せんとしたが成らず、 尼子氏の再興も果たせなかった。こうして、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦までの三十五年間、 毛利氏の掌中にあった。関ヶ原の合戦後、毛利氏は中国十一ケ国の大大名から防長二州に削封され 富田城も退去していった。その年の暮、毛利氏に代わって堀尾吉晴が入城して出雲・隠岐二十四万石を領した。 のち、堀尾氏は松江に城を築き、同十六年松江新城に移り、富田城は廃城となり、その歴史に幕を閉じた。
・二の丸の石垣越しに本丸方面を見る
………
・史料:国史大辞典ほか






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