永禄九年十一月二十一日、尼子氏は毛利氏の軍門に降り、戦国大名としての歴史に幕を閉じた。籠城の将兵は元就から「武士の亀鏡」とほめられ、それぞれ思いおもいに四散した。 河副久盛・立原久綱・山中鹿介・三刀屋蔵人・森脇東市正ら数十人は、尼子三兄弟を杵築まで見送ることが許され、そこで主従決別の盃を交した。これが主君義久と尼子家臣らとの永訣であった。そして、三兄弟は安芸に護送され、鹿介らは望みを将来にかけて故国出雲をあとにした。 ●尼子氏再興戦 主家没落後、京都に上っていた山中鹿介幸盛、立原源太兵衛尉久綱らは、東福寺に居た新宮党の遺子を還俗させ、尼子孫四郎勝久と名乗らせて主将に迎え、永禄十二年(1569)六月、島根半島千酌湾に入り、小競り合いののち上陸し、忠山に陣をすえた。勝久の周囲には旧臣が集まってきた。 尼子助四郎氏久、山中鹿助幸盛、立原源太兵衛尉久綱、秋上三郎左衛門尉綱平、秋上庵介久家、横道兵庫助秀綱、横道源允高宗、牛尾弾正忠久時、三刀屋蔵人家忠、吉田八郎左衛門久隆、松田兵部丞誠保 等、二百余人であった。 そして、尼子再興の機を耳にして集まった面々としては、 森脇東市正久仍、目賀田新兵衛尉幸宣、同幸定、河副美作守久盛、多賀兵庫助高信、屋葺右兵衛尉幸堅、中井平三兵衛尉久家、津森宗兵衛尉幸俊、横道源介久盛、熊野兵庫介久忠、古志新十郎重信、隠岐為清、吉田孫左衛門父子、以下約三千人で、その多くは永禄九年の富田開城まで見届けた人々であった。 尼子軍は新山城に本営を移し、故城の富田城を攻撃したが奪回できず、明けて元亀元年(1570)二月、迫り来る毛利軍二万五千を七千百でもって月山の近くの布部山=要害山に迎え撃った。しかし、毛利の大軍の前に大敗し、尼子十勇士の一人横道兵庫助を失った。ついで、山中鹿介につぐ十勇士の大立物、秋上庵介が毛利に降り、さらに六月三日佐太の勝間城の戦に勝久の側近、三刀屋蔵人や十勇士に名をつらねる上田早苗介が討死した。 元亀二年三月、尼子方高瀬城主米原綱寛は毛利方に城を明け渡し、尼子の本陣新山城に退去した。六月十四日毛利元就が居城の郡山城で七十五歳を一期として没し、鹿介らの反撃が予想されたが成功せず、尼子主従は京都に走り、再興の第一戦は実を結ばなかった。 ●尼子氏ふたたび滅亡す
尼子牢人が京都に走ったころ、戦国の舞台は織田信長によって回転の速度を早めようとしていた。鹿介らは信長の援助を得て因幡国に進出し、再興第二戦を企図する。しかし、因幡から伯耆、そして出雲奪回への計画はもろくも崩れ、またも京都に舞い戻った。尼子再興の第三回戦の舞台は山陰から山陽に移され、播州上月城が主戦場となる。すなわち、信長の先陣で中国征伐の総帥羽柴秀吉と、毛利の総帥毛利輝元を補佐する吉川元春・小早川隆景との対決である。 【写真:播州上月城跡】 毛利方の赤松氏が籠る上月城は秀吉軍によって落とされ、代わって尼子勝久・山中鹿介らが羽柴軍の最前線を担い上月城に入った。そして、上月城は毛利三万の大軍に包囲された。秀吉は尼子主従を救おうとして、尼子旧臣で秀吉のもとにいた亀井茲矩(湯新十郎)を上月城中へ潜入させた。しかし、鹿之介らはそれに応ぜず、結局上月城は毛利氏の攻撃の前に落城、勝久は自刃て果てた。ここに出雲尼子氏は完全に滅亡したのである。 一方、鹿介は降人となり捉えられて、西へ送られる途中、備中松山城のふもと、高梁川(甲部川)と成羽川の合流点にあたる合の渡において謀殺された。天正六年七月十七日、三十四歳であった。 ●再興から挫折までの軌跡
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