西暦 |
元号年 |
出来ごと |
1566年 |
永禄九年 |
十一月義久は毛利に降礼し富田城を開城降伏する。開城後、尼子三兄弟は杵築を経て安芸長田に護送、幽閉される。ここに尼子氏は没落となる。 |
1568年 |
永禄十一年 |
毛利と大友の間に抗争が生じ、その機に乗じて山中幸盛、立原久綱らは、尼子遺裔の勝久を戴いて尼子家の再興を図り、隠岐に拠る。 |
1569年 |
永禄十二年 |
尼子勝久、山中幸盛ら隠岐より島根半島北岸の千酌に上陸し、忠山に拠る。七月、富田城に迫るも、城将天野隆重の計により奪回を果たせず。 |
1570年 |
元亀元年 |
布部山の戦いで尼子軍、毛利軍に大敗。これによって尼子方末次城をはじめ諸城が次々と陥落する。牛尾三笠城・古志浄土寺山・森山城・熊野城・十神山城など。 |
1571年 |
元亀二年 |
尼子方次第に敗れる。二月平野久基、三月羽倉孫兵衛、四月三刀屋蔵人討死。六月、毛利元就、吉田郡山城で他界(享年75歳)。七月、末石城陥落し山中幸盛美作に退く、八月勝久隠岐に渡る。 |
1572年 |
元亀三年 |
山中幸盛因幡に赴き、山名豊国を援けて鳥取城を攻略する。その後、京都に上って立原久綱と会し、明智光秀に頼り織田信長に謁す。 |
1572年 |
元亀三年 |
山中幸盛因幡に入り、これより三年間因幡各地を転戦するが、兵糧・軍資につき織田方よりの扶持を受ける。 |
1574年 |
天正二年 |
尼子勝久因幡に入り、十日にして十三城を陥し、尼子旧臣集り会して三千余騎をもって鳥取城に入る。 |
1575年 |
天正三年 |
八月、吉川・小早川の軍一万七千伯耆に入り、尼子方の私都城、若佐鬼ケ城をい攻めて陥す。尼子勝久、山名か幸盛但馬に逃れる。 |
1577年 |
天正五年 |
十月、羽柴秀吉の先鋒として、尼子勝久、山中鹿介は姫路より播磨に進み、赤松氏の上月城を攻め落とす。 |
1578年 |
天正六年 |
二月、尼子勝久上月城に入り、宇喜多勢に攻められて一旦城を退くも、のちに上月城を奪い返し勝久が守将となる。四月、毛利軍が上月城を包囲。秀吉軍の後退により上月城は孤立。七月、上月城が落城し尼子勝久は自害(享年26歳)。山中鹿介捕らわれ、護送途中に備中国甲部川阿井の渡しにて謀殺される。享年34歳。ここに尼子氏はまったく滅亡した。 |