●安芸郡山城攻め
天文九年、詮久は叔父の国久に命じて郡山城の動きをさぐらせようとした。国久は月山北麓の新宮谷に居を構えていたことから、その率いる一党は新宮党と呼ばれ、尼子軍の主力であった。六月下旬国久は一党三千余を率いて備後口から南下した。備後三次の三吉隆信が尼子に属していたので備後三次に至り、属城の志和八幡山城に進出、郡山城への道を企図したが戦いに敗れて帰陣した。
八月十日、尼子軍の総帥詮久は富田城を発し、飯石郡赤穴から石見路を進み、邑智郡都賀で江川を渡り、口羽を経て安芸に入り、高田郡河根、河井の渡を南下、九月四日多治比の風越山に本営をすえ、東南およそ四 キロの毛利氏の居城郡山城を眼下に眺めた。
こうして郡山城の戦いの幕が切って落とされた。寄せては気鋭の青年武将尼子詮久の率いる三万の大軍、
守るは四十四歳の名将毛利元就を将とする二千四百の精兵と城下の領民を合わせておよそ八千人。郡山城攻めにおいて
詮久に従軍した諸勢を見ると、尼子一門と尼子被官をはじめ、伯耆・備前・美作・播磨・備中・備後・隠岐
・出雲・石見・安芸にわたる広汎な地域の兵たちであった。当時の尼子氏の威勢がうかがわれる軍容であった。
小競り合いはあったものの、決戦にはいたらず日が過ぎた。九月二十三日詮久は風越山から郡山の西南二キロの青山三塚山に陣を移した。これを知った毛利軍は風越山の本陣を攻めて焼き払った。ついで二十六日、尼子軍の部将である湯原宗綱が兵千五百を率いて坂・豊島に進出したが、坂には小早川興景や大内軍の先鋒杉元相がいてこれに応戦した。さらに郡山城からも粟屋元良らが出て尼子軍を挟み撃ちしたため尼子軍は敗走した。敗走の途中宗綱は深田に馬を乗り入れて進退に窮し討死した。
こうしたなかで十月十一日、詮久の主力軍は郡山城下に進出、決戦の構えをみせた。これに対し毛利軍も勝敗を一気に決することを決意、兵を部署して尼子軍に対した。毛利軍は粟屋縫殿允を留将として元就みずから出陣、攻撃を開始した。毛利軍の先鋒赤川元助・児玉就方ら四百は油縄手から多治比川を渡り、元就はそのあとに続いた。これに対し尼子軍は三沢為幸らが応戦して激戦となったが、戦機の熟した頃、三日市の渡辺通・国司元相ら五百と、十日市の桂元澄・児玉十郎右衛門ら二百の毛利かた伏兵が左右から突進したため毛利軍の優勢となり、尼子軍は本陣である青光山の麓まで敗走した。毛利軍はこれを追撃、激戦の末、三沢為幸以下数十人を討ち取った。
その後、十二月、陶興房の率いる大内の毛利援軍の先鋒一万余が到着すると、尼子氏の敗色はかくせないものとなった。明けて、天文十年正月十三日、毛利軍三千余は宮崎長尾の尼子軍を攻撃、一陣、二陣は容易に落としたが、後陣の吉川興経を落とすことができないまま三沢蔵人・高尾豊前守ら二百余を討って退却した。一方援軍である陶興房は詮久の本陣青光山を攻撃することに決し、背後から青光山の本陣を襲った。そのとき、尼子軍は各所に兵を出しており、本陣には兵が少なかったため詮久も危機に陥った。このとき、「臆病野州」こと尼子下野守久幸の活躍で、詮久は難を逃れることができたが久幸は「はなやかに討死」し、尼子武士の名を残した。
この合戦を機に、詮久は出雲への撤退を決意し、同日兵を集めて積雪の中国山地を越えて富田に逃げ返った。
詮久の安芸遠征の敗戦は、尼子氏の衰勢を決定的なものとした。一方、毛利氏は安芸におけるその位置を
確立することに成功した。このとき病床にあった経久はこの年十月、八十四歳を一期として波乱の生涯を閉じた。
・毛利元就画像
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郡山城攻めに従軍した諸将
●尼子一門
尼子下野守久幸(義勝)・経貞父子、新宮党の尼子国久・誠久・豊久・敬久
●伯耆
小鴨一族・大山衆徒・福頼治部大輔
●備前・美作・播磨
赤松晴久の援軍
●備中
庄治部大輔・三村家親・石川・細川
●備後
伊勢・山内・高野山・木梨・池上・三吉・宮・杉原
●隠岐
隠岐清重
●出雲
三沢為幸・三刀屋久祐・浅山・宍道
●石見
佐波隆連・本庄常光・羽根三河守・福屋隆兼・岡本正長・小笠原長徳・周布・祖式
●安芸
吉川興経・武田信実
●尼子被官
亀井安綱・佐世清宗・
河本隆任・牛尾幸清・湯原宗綱(幸宣)・河副常重・同久盛・宇山久信・秋上綱平・中井久包・同久家・高尾久友・
黒正久澄・立原久光(幸隆)・三刀屋蔵人・森脇勝正・同清平・横道清高・多胡辰敬・古志吉信・熊野久家・
米原広綱・湯惟宗・同家経・馬田慶信・山中一党・神西・広田・桜井・原・疋田・遠藤・池田・相良・大西・
本田・平野・津森・松田
(陰徳太平記から)
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