出自と家系
佐々木京極氏の支流として近江で発祥。


 尼子は、普通”あまこ”と読むが”あまご”とよばれることもある。アマコの呼称は、雨か海か天に関係があると思われ、余部(余戸)の里という説もある。近江守護京極氏の一族で、京極高秀の子高久が近江国犬上郡尼子郷に住んで尼子を名乗るようになったのがはじまりである。高久の子持久が出雲の守護代として、任国出雲に赴いたのが出雲尼子氏の始まり。

●尼子氏の発祥

 近江国は南北といわれ、佐々木氏の嫡流である京極氏が江北を、六角氏が江南をそれぞれ領した。京極氏で有名なのが、南北朝時代の典型的守護大名でバサラの三傑の一人に数えられた高氏(道誉)である。道誉は康安四年(1345)四月、戦功の賞として将軍足利尊氏から犬上郡甲良荘を与えられた。
 この甲良荘のうちに尼子郷があり、この地を孫の高久(秀久)に与えるように置文を置いた。この置文は道誉の後家尼留阿や、惣領によって守られ、尼子郷は応永五年(1398)六月高久に給与された。高久はこの地に住し、在地名をとって尼子氏を称した。尼子氏の歴史への登場である。

■参考略系図
佐々木氏京極氏系図を中心に尼子経久までを掲載。



    
 『佐々木系図』一本に、高久の子詮久に注して「江州尼子」、その弟持久に注して「雲州尼子」とあり、兄詮久は江州尼子郷を相伝し、弟持久が雲州尼子氏の祖となったことをうかがわせている。こののち江州尼子にはなばなしい活躍はみられず、雲州尼子の影に埋没する。とはいえ、雲州尼子が確実な史料にあらわれるのは正長元年(1428)や永亨十一年(1439)の『日御埼神社文書』で、かなり後のことである。
 同文書にはこの両年、大社国造家が大勢を率いて日御埼に発向し、種々も狼藉を働き、尼子四郎左衛門尉の「御成敗」もきかず、永亨十一年十一月に再び乱入し、段別・棟別銭を取るなど言語道断の悪行におよんだ、とある。尼子氏はたしかに守護の行うべき仕事を行ってはいるが、守護代として出雲統治にたずさわっていたわけではないようで、尼子四郎左衛門尉が雲州尼子氏の祖・持久であるという確証もない。

●出雲守護代に

 出雲の統治は守護の権限である。明徳の乱ののち、山名氏の没落に代わって、道誉の孫高詮が出雲・隠岐の守護に任ぜられた。さらに応永二年(1395)三月山名満幸を誅伐した賞として、出雲・隠岐両国の守護職と闕所分を合わせ「本領に准じ子孫相伝すべし」として高詮に与えられた。しかし、京極氏の本領は近江であり、室町幕府の侍所所司といった要職にあり、いつまでも出雲に留まっていられるわけがない。高詮は自分二代わって出雲を治める守護代をおいた。
 高詮は、隠岐には左衛門尉清泰、出雲には、はじめ隠岐五郎左衛門、のち尼子持久を守護代として送った、というが年代が合わないのである。『多胡外記手記』にみえる「高詮の弟高久、江州尼子に居り候を目代として富田へ遣わし、出雲・隠岐の仕置しなされ候」の記事が年代的にはやや合うようである。
 京極高詮は応永八年、出雲・隠岐・飛騨三ケ国の守護職、所領、所職を長男高光に譲って引退し、同年九月五十歳で死去した。そのあと、京極氏は高光−持高(持光)−高数と継ぎ、高数は嘉吉元年(1441)六月、嘉吉の乱で討死し、その跡は持高の弟持清が継いだ。出雲では持久の子尼子清定の時代に移っていた。