ヘッダ



尼子氏の歴史を年表で辿る
尼子氏の興亡を年表で見る。


西暦 元号年 出来ごと
1333年 元弘三年 鎌倉幕府滅亡。塩冶(佐々木)高貞、足利尊氏に降り、出雲守護職を安堵。
1340年 暦応三年 塩冶高貞、山名時氏に守護職を追われ自害。翌暦応四年山名時氏出雲守護職となる。
1343年 康永二年 足利尊氏により、佐々木道誉(高氏)が出雲守護職に任ぜらる。
1351年 観応二年 これより、山名時氏と佐々木道誉が出雲国をめぐり争う。
1391年 明徳二年 明徳の乱により、山名氏衰退する。
1392年 明徳三年 京極(佐々木)高詮が出雲国守護となる。
1395年 応永二年 一説に尼子持久、京極高詮の守護代として富田城に入城する。
1404年 応永八年 京極高詮、出雲・隠岐・飛騨の所領を嫡子高光に譲る。
1441年 嘉吉元年 嘉吉の乱、将軍義教弑殺される。京極高数殉じて討死。出雲・隠岐・飛騨三国守護に京極持清。
1458年 長禄二年 尼子又四郎経久誕生。母は真木上野介の娘。
1467年 応仁元年 応仁の乱勃発。京極持清は出雲・隠岐の兵を率い、東軍に属す。出雲守護代尼子清定、度々の戦に戦功を挙げる。
1468年 応仁二年 安来地頭松田豊前守富田城を攻める。能義郡の土一揆、尼子清定これを討つ。持清、清定を能義郡奉行に任ず。また、美保関代官、安来領家分代官に任ぜられる。
1471年 文明三年 京極政高(のち政経)出雲守護に任ぜられる。
1478年 文明十年 尼子経久、家督を相続する。(一説に文明六年)
1484年 文明十六年 尼子経久、守護代を罷免され富田城を追われる。塩冶掃部介守護代となり富田城に入る。
1486年 文明十八年 尼子経久、守護代塩冶掃部介を滅ぼし富田城の奪還に成功する。
1488年 長亨二年 経久、三沢為幸を富田城下に打ち破る。
1497年 明応六年 安芸国、吉田城にて毛利元就(松寿丸)誕生。
1508年 永正五年 京極政経、吉童子丸に出雲・隠岐・飛騨の守護職を譲り、これを尼子経久に託す。
三好一党の京都攻めに対して、経久は亀井・湯・牛尾・三沢・三刀屋・横道・森脇等の勢を率いて戦い敵を敗走させる。
十二月、京極政経没し、京極氏の出雲守護の実勢が終焉する。
1510年 永正七年 尼子経久、安芸を攻めて鏡山城を奪う。
1511年 永正八年 経久、京都船岡山に戦う。
1514年 永正十一年 尼子晴久(詮久)誕生。
1517年 永正十四年 経久、備後・備中、美作方面に出兵。
1518年 永正十五年 出雲国阿用に攻めにて、経久の嫡男政久流れ矢に当たり討死。享年26歳。(一説に永正十年とも)
1519年 永正十六年 大内軍と石見、安芸に戦う。経久、横田藤ケ瀬城主三沢為国を攻略する。
1521年 大永元年 経久、山陰・山陽十一ヶ国を制圧し、尼子家最盛期を迎える。
1523年 大永三年 毛利幸松丸他界する(享年9歳)。元就家督を嗣ぐ。
1524年 大永四年 経久、大兵を発して伯耆を攻略し、米子・淀江・尾高・天満・不動ケ丘を落とし、八橋・岩倉・堤、また南条宗勝の羽衣石をも陥落せしめ世に「大永くずれ」と称される。
七月、毛利元就と連合して、大内軍を備後銀山城に破る。
1526年 大永六年 尼子方に毛利元就の俊英を警戒することが起こり、元就に替えてその弟相合就勝を立てる策謀あり。元就、これを排し、これにより尼子との同盟を破棄、大内義興とよしみを結ぶ。
1526年 大永六年 経久の三男興久、父に背く。十二月大内義興没し、義隆が大内氏の家督を嗣ぐ。
1534年 天文三年 興久、自害。享年38歳。
1537年 天文六年 経久、孫の晴久に家督を譲る(経久80歳、晴久23歳)。
1538年 天文七年 経久、播磨の守護赤松政村を攻め淡路に走らす。
1540年 天文九年 晴久、石見銀山攻略。続いて毛利元就征伐のため安芸国を討つ。高田郡吉田庄、青野鼻三猪口、太田口合戦、宮崎合戦、後河原合戦など。
九月、尼子国久伯耆へ発向、因幡橋津川合戦に尼子豊久討死。
十一月、詮久は毛利の本城吉田城に迫るが、元就はこれをよく防ぎ、大内氏の援軍を待つ。十二月、大内義隆は吉田郡東南山田山中に着陣する。
1541年 天文十年 大内氏の陶・杉・内藤の三将が天神山に陣し、決戦となり尼子氏大敗する。この戦いに経久の弟、尼子久幸討死。尼子軍富田城に敗走。
十一月、経久は月山富田城にて死去(享年84歳)。
1542年 天文十一年 大内義隆、尼子軍の敗走を追って、防州山口の館を発す。
1543年 天文十二年 大内・毛利両軍、京羅木山に陣し、富田城を攻める。尼子方の奮戦で大内方敗れる。この戦で、義隆の養子大内晴持は揖屋で死亡(溺死・享年20又は15歳)。
1544年 天文十三年 元就、三男隆景を小早川家の養子にす。
1550年 天文十九年 元就、吉川興経を謀殺。二男元春を養子として、吉川家に送り込む。
1551年 天文二十年 陶晴賢、大内義隆に反旗を翻し、義隆を殺害する。
1552年 天文二一年 晴久、足利義晴より陰陽八ヶ国の守護職に任ぜらる。
1554年 天文二三年 「新宮党事件勃発」。毛利側の策略にはまって、晴久は新宮党の国久、誠久、敬久、常久、吉久を殺害する。この結果、尼子氏は、強力な翼を失うことになる。孫四郎(のちの勝久)のみ脱出。
1555年 弘治元年 「厳島の戦い」。陶軍、毛利軍の奇襲に敗退。晴賢自害。
1558年 永禄元年 吉川元春につづき、毛利、小早川の諸軍石見に侵攻する。
1560年 永禄三年 元就は大森銀山城を囲み、城将本城経光を降す。さらに尼子方の三沢、三刀屋、赤穴の諸将に続き、米原綱寛も毛利に降る。
一説にこの年、十二月二十四日晴久没すという。
1562年 永禄五年 毛利・吉川・小早川三軍、出雲国尼子領に侵略開始。元就は洗合天倫山に陣す。
十二月二十四日晴久頓死。
1563年 永禄六年 元就の嫡男毛利隆元、佐々部にて急逝。毛利軍、白鹿城を陥落させ、松田一族滅亡。続いて熊野城の戦があり、熊野和泉守討死。
1564年 永禄七年 日登の戦いあり。毛利軍による、月山富田城の包囲戦始まる。毛利本陣、京羅木山に布陣する。
1565年 永禄八年 四月、毛利方の富田城三面攻撃に対して尼子軍は善戦、毛利軍は一旦洗合に軍を退く。
この頃、尼子義久は讒言にのせられて罪なき刑を行い、家臣の逃亡と毛利方へに投降が続出する。
1566年 永禄九年 十一月義久は毛利に降礼し富田城を開城降伏する。開城後、尼子三兄弟は杵築を経て安芸長田に護送、幽閉される。ここに尼子氏は没落となる。
1568年 永禄十一年 毛利と大友の間に抗争が生じ、その機に乗じて山中幸盛、立原久綱らは、尼子遺裔の勝久を戴いて尼子家の再興を図り、隠岐に拠る。
1569年 永禄十二年 尼子勝久、山中幸盛ら隠岐より島根半島北岸の千酌に上陸し、忠山に拠る。
七月、富田城に迫るも、城将天野隆重の計により奪回を果たせず。
1570年 元亀元年 布部山の戦いで尼子軍、毛利軍に大敗。これによって尼子方末次城をはじめ諸城が次々と陥落する。牛尾三笠城・古志浄土寺山・森山城・熊野城・十神山城など。
1571年 元亀二年 尼子方次第に敗れる。二月平野久基、三月羽倉孫兵衛、四月三刀屋蔵人討死。
六月、毛利元就、吉田郡山城で他界(享年75歳)。
七月、末石城陥落し山中幸盛美作に退く、八月勝久隠岐に渡る。
1572年 元亀三年 山中幸盛因幡に赴き、山名豊国を援けて鳥取城を攻略する。その後、京都に上って立原久綱と会し、明智光秀に頼り織田信長に謁す。
1572年 元亀三年 山中幸盛因幡に入り、これより三年間因幡各地を転戦するが、兵糧・軍資につき織田方よりの扶持を受ける。
1574年 天正二年 尼子勝久因幡に入り、十日にして十三城を陥し、尼子旧臣集り会して三千余騎をもって鳥取城に入る。
1575年 天正三年 八月、吉川・小早川の軍一万七千伯耆に入り、尼子方の私都城、若佐鬼ケ城をい攻めて陥す。尼子勝久、山名か幸盛但馬に逃れる。
1577年 天正五年 十月、羽柴秀吉の先鋒として、尼子勝久、山中鹿介は姫路より播磨に進み、赤松氏の上月城を攻め落とす。
1578年 天正六年 二月、尼子勝久上月城に入り、宇喜多勢に攻められて一旦城を退くも、のちに上月城を奪い返し勝久が守将となる。
四月、毛利軍が上月城を包囲。秀吉軍の後退により上月城は孤立。
七月、上月城が落城し尼子勝久は自害(享年26歳)。山中鹿介捕らわれ、護送途中に備中国甲部川阿井の渡しにて謀殺される。享年34歳。ここに尼子氏はまったく滅亡した。






戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ

どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク

地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
………
奥州葛西氏
奥州伊達氏
後北条氏
甲斐武田氏
越後上杉氏
徳川家康
播磨赤松氏
出雲尼子氏
戦国毛利氏
肥前龍造寺氏
杏葉大友氏
薩摩島津氏
を探究しませんか?

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋
そのすべての家紋画像をご覧ください!

日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る…
諸国戦国史

丹波播磨
備前/備中/美作
鎮西常陸

わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。
家紋を探るにリンク
………
系譜から探る
姓氏から探る
家紋の分布から探る
家紋探索は先祖探しから
源平藤橘の家紋から探る

人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

www.harimaya.com