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尼子氏滅亡
経久、晴久と覇を唱えた尼子氏もついに滅亡の日を迎えた。


 京極氏の守護代から身を起こして、出雲一国に覇権を確立、そして因幡・伯耆・隠岐・石見を経略し、さらに安芸・備後・備前・美作・備中・播磨までを勢力下におき、山陰・山陽十一ケ国の大守と称せらる大大名となった尼子経久は天文十年に没した。その跡を継いだ晴久も永禄三年十二月、四十七歳で没した。ここに、尼子氏はようやく、衰えをみせはじめたのである。

●毛利氏の富田城攻撃

 晴久のあとは、嫡男義久が継いだ。永禄五年七月三日、毛利元就は分国の将士一万五千を統率して郡山城を出馬し、出雲征討の途についた。十一月本城一党を屠って銀山を手中におさめ、松江の宍道湖北岸天倫寺山に洗谷城を築き、富田城とその最有力の支城白鹿城との連絡を断ち、持久戦の構えをとった。富田城主である尼子義久は弟倫久を主将に白鹿城の後巻を策したが失敗した。
 永禄六年八月、元就の嫡男隆元が頓死したことを知った元就は、その弔合戦というわけで白鹿城総攻撃を断行し、九月に城は落ち松田一族は滅亡した。ついで熊野城を攻め、城将熊野和泉守は討死した。翌年四月、毛利軍は富田城に迫り京羅木山に布陣した。
 翌八年四月元就は本陣を星上山に移し、十七日菅谷口・御小森口・塩谷口の三方面から富田城攻めを敢行した。籠城の尼子勢は菅谷口の将に尼子秀久をあて、宇山飛騨守・佐世伊豆守・湯佐渡守・森脇長門守ら三千余人がこれを支え、塩谷口は尼子倫久を将に立原久綱・秋上伊織助・大西十兵衛・山中鹿介ら三千七百余人、そして御小森口は義久を将に三刀屋蔵人・牛尾弾正忠・熊野兵庫・神西三郎左衛門ら五千二百余人が毛利軍を迎え撃った。尼子方はよく戦い、毛利軍の撃退に成功した。このとき、富田川(飯梨川)の川中島において演じられた山中鹿介と毛利方の品川大膳との一騎討ちは、いまなお名高い戦話となっている。いまも、「山中公一騎打の処」と刻んだ石碑が建立され、近くに敗れた品川大膳の墓も残っている。
 元就は富田城攻撃に際して、はじめ投降する籠城兵に食糧を与えたが、さきの攻撃失敗以後は富田城を完全に包囲し、四方に関門をつくり高札を立て、投降や脱走を許さなかった。これは、富田城内の食糧を減らそうとする戦略であった。やがて、城内の食糧が乏しくなってきたころを見計らって高札を取り除くと、義久の側近牛尾豊前守をはじめ、亀井秀綱・河本隆任・佐世清宗・湯惟宗ら累代の部将が富田城をあとにし、十一月には「牛尾遠江守幸清、同太郎左衛門久清その外宗徒の者、歴々まかり退」いた。牛尾氏は尼子清定・経久が領国形成の過程で頼りにした国人譜代で、幸清は家老職の一人であったし、佐世清宗もまた家老であった。
 家老筆頭の宇山久兼は、この状況を阻止しようと自らの資財で食糧食を但馬、丹波などから買い入れ安来より間道で富田城に入れ城兵にこれを配布し、逃亡と飢餓を救った。しかし、元就と通じたとの讒言で尼子義久は永禄九年元旦、長男弥四郎とともに誅した。『老翁物語』には「その家亡ぶべきとては、か様に忠義の者共殺さるる様になりゆき申すげに候」と、宇山の死が讒言によることをほのめかしている。義久は元就の調略にひかかったのである。
 ついに、尼子三兄弟は万策尽き、十一月二十一日に使者を毛利の本陣に遣わし、降伏を申し出た。元就の二男吉川元春、三男小早川隆景らは尼子族滅を主張したが、元就はこれを退け、名門尼子一族を助けるのは「弓矢の道」であるとした。
 永禄九年十一月二十一日血判の聖紙を交換し、二十八日富田城は明け渡され、福原貞俊・口羽通良の両将が城内に入り、ついで天野隆重と交代した。
・本丸から毛利氏が陣を布いた西方の山々を遠望


●尼子氏のその後

 富田城を出た三兄弟は杵築に送られた。籠城の将兵は元就から「武士の亀鏡」とほめられ、それぞれ思いおもいに四散した。河副久盛・立原久綱・山中鹿介・三刀屋蔵人・森脇東市正ら数十人は杵築まで見送ることが許され、主従決別の盃を交した。これが主君義久との永訣であった。三兄弟は安芸に護送され、鹿介らは望みを将来にかけて故国出雲をあとにした。
 その後、天正十六年三兄弟は宍道の梶谷に居を構え、五百七石の地を給された。慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに敗れた西軍の総大将輝元は、周防・長門に削封され、尼子三兄弟は千二百九十二石余の地を給され、義久は奈古に住み、入道して友林と号し、慶長十五年八月没した。弟秀久は前年十二月に没していた。倫久は文禄・慶長の役に毛利輝元に従って出陣し、関ヶ原の戦には輝元の一軍として戦うなどの軍役をつとめ、元和九年(1623)三月に没した。
 義久には子がなく、倫久の長男九一郎を養子として家を継がせ、久佐将監元知を称させた。久佐元知の跡は養子で宍道就兼の子が継いだ。これが就易で、母は倫久の女であった。就易は久佐を改め佐々木を称し、寛永元年(1624)千二百九十二石余の地を認められ、萩の毛利藩寄組に編成された。






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