赤松氏



家紋アイコン 播磨の中世
史実と伝承が混在する赤松氏前史



 播磨国はもともと平家の知行国であった。源頼朝によって平家が滅ぼされ、鎌倉幕府が成立すると、守護制度が設けられた。このとき、最初の播磨守護となったのは梶原景時であった。そして、景時は北条義時とは、幕府内でも仲の良い間柄であった。
 『赤松系図』に、山田伊豆守入道則景が、佐用庄地頭職に補任せられ、北条義時の娘を娶ったことが記されている。山田則景は、別の系図では宇野頼景となっていて、本姓は宇野氏である。佐用町の西に、いまも山田の小字が残っていることから、則景はそこに館を構えた豪族とみて間違いないだろう。ところで、則景の子に間島景能・上月景盛・櫛田有景があり、則景の一族に景の字が多く襲名されれいることに気付く。
 先述のように「則景が北条義時の婿である」とする伝説の中には、播磨守護梶原景時との関係が背後にあるのではないだろうか。そして、鎌倉御家人で「景」の字を偏諱として用いているのは、梶原氏のほかは大庭氏ぐらいなものである。ちなみに、梶原氏、大庭氏ともに鎌倉権五郎景政の後裔を称する一族であった。あえて想像するならば、則景は、播磨守護梶原景時の猶子となって景の偏諱をもらい、その尽力によって佐用地頭職に任ぜられた、というところではないだろうか。
 しかし梶原景時は、正治元年(1199)千葉常胤以下重臣連名の弾劾状によって失脚し、討たれてしまった。この事件に際し、北条義時は連名状に名を記していないばかりか、のちに景時の子友景が降人となったときは、かれを保護しているのである。はっきり、梶原氏擁護の立場に廻っている。梶原景時失脚後、播磨の守護は小山朝政が任ぜられたが、執権北条義時の息のかかった佐用庄では、たとえ梶原景時と関係の深い山田則景であっても、守護や幕府はその佐用庄地頭職を解任することはできなかったようだ。
 赤松氏の祖家範は、則景の末子となっており、かれが佐用庄の一部の赤松村の地頭代官に補せられたとしても、いたって自然である。したがって、のちの円心はその家系からいえば一族の本流とはいえず、あくまでも個人的武勇と人柄をもって、ついには赤松一族を統率するまでにいたった実力者であったといわざるをえない。円心が「太平記」のなかで、名乗るべきほどの経歴を持たなかったのも、末流から宗家をしのいだ身であれば、さもあろうことである。
 鎌倉時代、播磨に地頭として、あるいは地頭の被官として下向した東国武士は、糟谷氏・吉川氏・海老名氏・肥塚氏・淡河氏・櫛橋氏・後藤氏などがいたが、元弘の乱から南北朝期にかけての赤松円心を中心とした赤松一族の躍進によって、その多くは赤松氏の被官となり、さらに婚姻などによって一族化していった。こうして、播磨国の中世は、赤松氏によって大きく開かれ、その後、播磨において赤松伝説が育ち、それは遥か現代にいたっても影をひいているのである。

■室町期から戦国時代にかけての播磨国要図


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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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