赤松氏



家紋アイコン 播磨戦国史
赤松氏の興亡が、播磨の中世そのものであった。



 応仁の乱で東軍として活躍した赤松兵部少輔政則は、播磨・美作・備前の三国の守護となり、赤松氏を再興することに成功した。政則は三国の守護を確実なものとするために、宿敵山名氏を武力で打倒する以外にはない。政則は東軍の猛将の一人として活躍、文明三年(1471)には侍所所司にも任ぜられた。
 だが、応仁の乱は、室町幕府政治の末期症状から起こったものであて、将軍義政にも、派閥の領袖にも大乱を収拾する力はなかった。文明五年、山名持豊・細川勝元が相前後して病没、跡を継いだ細川政元・山名政豊の二人は講和してしまったが、東軍では政則が、西軍では畠山義就が、猛烈に講和に反対した。文明九年、畠山義就が河内に下向したことで応仁の乱は終局を迎えたが、それは、戦乱の拡大、戦国動乱の開幕に過ぎなかった。

内憂外患

 政則も文明十一年播磨に下向。そして長享二年(1488)に至るまでのあしかけ十年、山名政豊と播磨各地で死闘を繰り返し、ついに政豊を但馬に撤退させることに成功した。南北朝内乱以来の赤松氏と山名氏との宿命の対立は、応仁の乱に続く延長戦で政則が勝利したことで、決着がついたかにみえた。武力でも播磨・美作・備前を回復した政則は、将軍義材の近江再征には軍奉行として活躍した。そして、明応二年(1496)従三位に叙せられ公卿に列した。将軍以外の武将でこの位に昇ったのは政則がはじめてという、晴れがましい位階であった。しかし、その二か月後、政則は四十二歳で病没した。
 政則の後半生は、赤松氏盛時以上の栄光に包まれていたようにみえる。だが、それは虚構に満ちた最後の栄光でもあった。応仁の乱中から、被官浦上氏が台頭、次第に政則の実験を握っていった。つまり、政則の栄光は、浦上氏の活躍に負うところが大だったのである。
 政則は祖先の本拠地白旗城や守護館があった越部に拠らず、置塩城に本拠を置き、置塩館と呼ばれた。政則の死後、七条家から義村が迎えられて、置塩城二代となった。このころ浦上氏にも分裂が生じ、播磨の戦国動乱は深まった。小寺・別所氏ら赤松一族の国人の成長も顕著となった。また、将軍家や細川氏の分裂抗争も播磨に直接的に波及してきた。
 赤松政則夫人は権力をもっていたが、大永元年(1521)浦上村宗の強制により、義村を廃し、その子政村をたてた。そして、義村は村宗のために殺害された。義村のこのような殺され方をみても赤松氏はこのとき、事実上は滅亡したというべきかも知れない。享禄三年(1530)村宗が戦死、天文七年(1538)には出雲の尼子晴久の軍が播磨に侵入、この間赤松晴政(政村)の威令は全く行われなかった。

中世の終焉

 この後、龍野城主赤松政秀が、天文・弘治を経て、永禄年間にわたり活躍し、永禄七年(1564)浦上氏を滅ぼした。時代は降り、天正四年(1576)羽柴秀吉の中国征伐にあたり、政秀の子広英は龍野城に降伏した。置塩城主で晴政の孫則房はこれより先に信長に従っていた。
 こうして赤松氏は、新興の織田・羽柴軍の前に膝を屈したが、三木城に拠る別所長治・長水城の宇野政頼・上月城の赤松政範らは、毛利氏と結んで羽柴軍に抵抗した。しかし、天正五年十二月上月城の赤松氏が、天正八年正月別所氏、そして二月には英賀三木城が落ち、最後まで頑張った宍粟郡長水城も天正八年五月に落城。ここに、中世以来、播磨に蟠踞した赤松氏とその党類は時代の波にのまれて潰えてしまったのである。
●写真:揖保川を隔てて龍野古城祉を見る。

■播磨の戦国大名割拠図

 余談ながら、置塩赤松則房は、秀吉より阿波国住吉一万石に封されていたが、関ヶ原の戦いに宇喜多秀家に従い西軍に荷担、戦後、所領を没収され赤松嫡流家もここに終わりをつげた。



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