赤松氏



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村上源氏というが、その真偽は…



 赤松氏の本貫地は、播磨国佐用郡赤松村である。赤松氏は、元弘の乱にさいし、赤松円心(則村)が護良親王の令旨を奉じて苔縄城で挙兵したことで、華々しく歴史の表舞台に登場した。その赤松円心について『太平記』巻之六は

播磨国の住人、村上天皇弟七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて、弓矢取りて無双の勇士なり。元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思はざりければ、云々。

と紹介している。赤松氏自身も、室町後期には、村上源氏、久我大臣の分流で、円心四代前の家範がはじめて赤松を号したという、公式見解をもっていた。元弘の乱で颯爽と登場した赤松氏は、おそらく自らも村上源氏説を主張し、『太平記』の作者の情報源となったのかも知れない。
 赤松氏の系図は『続群書類従』だけで七種、他に一族である有馬氏・石野氏のものを加えると九種もの赤松系図が収められている。細部ではかなり異同のあるものの、村上源氏説は共通し、季房や家範を登場させる系図も多い。『太平記』の所伝や赤松氏の公式見解が、系図作者にひろく支持された結果といえるだろう。
 では、村上源氏説は、はたして正しいものであろうか。種々の赤松系図よりも成立が古く、信頼度もはるかに高いとされる『尊卑分脈』も、赤松氏を村上源氏とする。ただし、『尊卑分脈』が記す赤松氏は『太平記』のいう季房の末孫ではなく、季房の兄弟の孫師季の末孫とし、師季から季方−季則−頼則−則景−家範−久範−茂則と七代を経て則村(円心)に至ったとする。
 師季は寛元元年(1243)に非参議正三位で出家した人物。ここまでの村上源氏は、久我太政大臣と通称された雅実をはじめ、公卿に列した人物が多く、系譜も詳しい。北畠親房もこの一流である。ところが師季の子季方以後の七代は、季方に二人の兄弟を記すだけで、他の六人には兄弟名すらなく、系譜の断絶を良そうさせる。しかも円心は建治三年(1277)の生まれと考えられるから、師季以後七代とはあまりに多すぎる。『尊卑分脈』も、なるほど村上源氏とはするものの、村上源氏として明白な師季との結び付きは明かに不自然で、強引だといわざるをえない。
 もっとも、こうしたことからただちに赤松氏村上源氏説を否定し去ることはできないが、積極的に肯定するには、さらに根拠が薄弱だといわざるをえない。

赤松氏は悪党の出身か

 百歩譲って、よし村上源氏、季房か師季かの季孫であたとしても、大事なのは、赤松氏は鎌倉時代を通じてそのことを誇ってきたのではなさそうなのである。 『赤松略譜』によれば、師季が佐用荘に配流されて季房が生まれ、のち季房は勅免をうけて上洛し従三位になったという。あたかも『太平記』に符号するような系譜を記しているが、従三位の季房は実在しない。『尊卑分脈』に記される季房(ただし、師季の子ではない)は正四位下・丹波守である。西播磨は配流の地であることはたしかで、『太平記』などの所伝は官位を誤っただけとみてもよいが、そうした貴族の血を受けているのなら、赤松氏は荘官や地頭ぐらいになってもよい。
 ちなみに佐用荘は九条家領荘園で、佐用・赤穂・宍粟三郡にまたがる大荘で、赤松村は佐用荘を構成する一村である。ところが前掲のように『太平記』の紹介は、季房の末孫とするだけで、役職名などはいっさい記さない。おそらく語るほどのものはなかったのであろう。
 このようにみてくると、赤松氏が村上源氏の流れであったかどうかはともかくとして、円心やその親たちは、鎌倉時代九後期には、悪党の一員、頭領株として活躍していたのではなかったか、と考えるのがもっとも自然ではないだろうか。
 悪党とは、悪僧や悪徳商人など、文字どおりのワルモノも含まれてはいるが、鎌倉幕府が御家人らの信望を失ってその政治が硬直化・専制化してゆく中で、もはや幕府を頼みとせず、相互に連携して新しい封建制を目指しはじめた新興武士を中心とする集団である。幕府がこれを反体制集団=悪党と規定して取り締まろうとしたため、鎌倉時代後期は、いうなれば悪党の時代となった。
 南北朝時代中期に成立した播磨国の地誌『峰相記』が、「諸国同事と申しながら、当国は殊に悪党蜂起の聞こえ候」として、その生態を詳しくえがくように、播磨は有名な悪党地帯であった。そして、鎌倉幕府や六波羅探題の鎮圧がはかばかしく進行しないままに、国中上下過半が悪党に同意し、元弘の乱に突入していった。  もっとも、円心を悪党出身とするについても確かな根拠があるわけではない。しかし『太平記』の円心紹介の末尾、「元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思」わなかったというには、まさに悪党そのものの生きざまといえるものではないか。
 西播磨の一隅からおこって、鎌倉幕府体制崩壊の過程で、飛躍の好機をつかんだ赤松氏は、広い意味では、悪党出身として差し支えないのではないか。

赤松氏の飛躍

 さて、赤松氏は悪党の出身であるとしても、並の田舎侍ではなかった。京都大徳寺の開山宗峰妙超は、播磨国揖東郡小宅荘の浦上氏の出身であるが、母は赤松円心の姉であるといわれる。円心自身も、雪村友梅ら禅僧とも交遊が深く、のち友梅を招いて赤松村に法雲寺をひらいている。
 雪村と円心とはたまたま路上で出会って、円心はかならず世に出るあろう、と雪村が予言したという話が残されている。円心は京都辺をうろつく機会はいくらでもあったようだ。
 しかも、円心の三男則祐は、赤松一族とみられる小寺頼季とともに叡山に入り、尊雲法親王(のちの護良親王)の側近となった。また、嘉暦元年(1326)の摂津国長洲荘の荘官連署起請文に「惣追捕使貞範」「執行範資」の署名があるが、これは円心の長男・二男である可能性が高い。長洲荘は滝川の河口近くに位置し、西国の商品流通の中心地、したがって情報の拠点でもあった。円心はここにも息子たちを派遣していたわけで、円心自身は播磨の一隅にいながら、天下の形勢は手にとるようにわかっていたはずである。
 こうして、ついに赤松円心は飛躍の機会をつかんだ。すなわち、元弘の乱の勃発であった。
参考:「日本の名族-八」所収「赤松氏」項



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