置塩城下を歩く
赤松氏、ゆかりの地を訪ね歩く
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赤松氏は播磨西部に位置する赤松から家を興し、白旗城の戦いで世に躍り出た。足利幕府が成立すると、播磨・美作・
備前三国の守護職に任じ、城山城を拠点として山陽道東部を押える太守となった。満祐の起こした嘉吉の乱で
滅亡したが、遺臣らの活躍で赤松政則が加賀半国に守護に返り咲き家の再興がなった。政則は傑出した人物だったようで
応仁の乱が起こると細川勝元に与して奮戦、かつての旧領である播磨・美作・備前三国すべてを回復したのであった。
政則はみずからの本拠地として置塩の地を選ぶと、館を建て、詰めの城を築き、赤松宗家の新たな城下町として
整備を進めた。明応五年(1496)四月、政則が死去したのちは養子の義村が継いだ。すでに時代は下剋上の風潮を帯び
ており、
義村は重臣浦上村宗との対立を深めたすえに謀殺されてしまった。以後、播磨は足利幕府の混乱と相俟って擾乱が続き、
さらに出雲の尼子氏や但馬の山名氏らの播磨侵攻によって置塩城が陥落するということもあった。その間、
晴政・義政らは領国支配に苦闘、ときには将軍家の嫡子(のちの義晴)を置塩に迎えたときもあった。
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●城址のような石垣の浄安寺 ●境内に祀られた伝赤松義村の供養塔 ●浄安寺より置塩城址を遠望
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●菩提寺の面影を残す基壇址 ●境内の赤松氏墓石群 ●寄り添って立つ晴政(右)と妻の五輪塔
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●置塩山麓の古刹-性海寺本堂 ●庫裏に刻まれた梅鉢紋 ●境内の赤松政則供養塔
やがて、織田信長が将軍
足利義昭を奉じて畿内を制圧すると
赤松氏ら播磨の豪族たちは信長に誼を通じたが、のちに信長と決裂、羽柴秀吉の中国攻めに遭ってその多くは
没落していった。赤松氏の最期の当主は義祐であったといわれるが、その実在を含めて末路は遥として知られない。
はかなく潰え去った赤松氏であったが、いま、田舎の小さな集落と化した置塩の地を歩くと、
ゆかりのスポットが点在している。
市川を見下ろす山上の置塩城をはじめ、菩提寺であった松安寺、英保城主三木氏とともに再建したという古刹-性海寺、
南北朝時代のはじめに創建されたと伝える櫃蔵神社など、かつて乱世を懸命に生きた赤松氏の名残が確かな重みを
持って感じられるのである。
【散策:2009年8月14日】
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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