龍野古城探訪記
西の赤松氏が居城とした堅固な山城
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龍野古城は籠鶏山と呼ばれる山頂にあり、戦国時代はじめの明応八年(1499)、赤松氏の一族
赤松村秀によって築かれた。以後、四代八十年にわたって赤松氏が城主であったが、豊臣秀吉の播州征伐後、
赤松氏は但馬竹田城へと移り住んだ。その後、龍野城主は豊臣恩顧の武将が代わる代わるつとめたが、
慶長のはじめ(1598ごろ)山頂の古城は取り壊され、麓に新たに城が築かれたという。大手道から本丸をめざすと、
土塁や掘切などが点在し、本丸近くの曲輪には矢竹がいまも繁っている。
・揖保川越しに城址のある鶏籠山を見る
2008_01/03
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山麓の脇坂時代の御殿 ・ 大手道 ・ 見事な土塁 ・ 石垣の見える曲輪 ・ 当時の矢竹がいまも…
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崩落しつつある石垣 ・ 古城の石碑 ・ 広い本丸址 ・ 本丸を取り巻く石垣址 ・ 八幡宮址の石畳
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本丸近くになると崩れた石垣が目立つようになり、本丸に達すると、意外な広さで地表には往時のものと思われる瓦片が散在している。さらに、驚かせるのは、本丸下に残る八幡宮の跡である。社殿こそ朽ち果てて残ってないが、当時のままであろう見事な石畳が続いている。
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見事な石段 ・ 随所に石垣の址 ・ 頂戴な竪堀を見上げる ・ 城址の縄張図 ・ 脇坂氏の輪違い紋
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本丸をあとに下山、あちこちに石垣、堀切りが散在。樹木の間からは龍野の町が遠くに見え隠れし、樹木がなければ
遠くまで望める、なかなかの要害の地であったことが実感できる。江戸時代になると、龍野は脇坂氏が治め、
小京都とよばれる町となった。現在、脇坂氏時代の城が復元され、瓦などには脇坂氏の家紋「輪違い」「桔梗」が
刻まれている。
【登城:2007年5月5日】 |
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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