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戦国島津氏


 島津氏台頭の基盤となった南九州は、遠隔地型の荘園体制のもとにあって独自の在地構造を持っていた。 しかも在地領主の力が強く、小地頭と惣地頭の内紛も激しいものがあった。なかでも島津氏の守護領国制の展開を いっそう困難にしたのが島津一族の内訌である。島津氏は、初代忠久以来十代忠国までの間に、 若狭・越前・伊作・総州・奥州・薩州・豊州・相州の各島津家のほか、山田・町田・伊集院・新納・樺山・北郷・ 川上氏らの一族庶家を創出した。

国内統一の戦い

 このうち、総州島津氏(七代伊久)と奥州島津氏(八代元久)との間に争いが起こり、足利幕府は、 応永十一年(1404)両者を和解せしめ、元久に日向と大隅、遅れて薩摩の守護織を与えた。ところが元久が没すると、 今度は元久の弟久豊と伊集院頼久との間に不和が生じ、両者は諸所において合戦、一進一退ののち、 久豊は頼久を制圧した。しかし、島津一族の内訌は絶えず、これに国内勢力である在地領主との軋轢が加わって、 三州は対立と分裂に明け暮れた。特に忠治・忠隆・勝久の三代の間は、いずれも幼弱で、守護家の権威を凋落し、 島津氏の冬の時代であった。
 こうしたなかで、島津本家を再興し三州の統一に成功したのが伊作島津氏の貴久である。貴久は大永六年(1526) 守護家を継いでより、一族間の内訌に終止符を打ち、子の義久・義弘・歳久・家久らの協力によって、 島津氏雄飛の基礎を作った。まず薩摩・大隅を固めて、菱刈・渋谷・肝付らの有力な在地領主を降し、他方、 日向は豊州島津忠親の協力によってこれを収め、ここに三州の統一に成功したのである。
 島津氏はこの過程を通じて、群小の在地領主を家臣団に編成しながら、外城制という独特な在地支配の方法を用い、 外城支配下の衆中には、島津氏の直臣団を配置して、城下の麓に居住させ、外城の軍事力を構成するとともに、 農村支配も担当させた。こうして島津氏は、強力な在地支配の体制と、それを基盤とする戦国大名権力を作り上げた。
・戦国薩摩-諸豪割拠図

九州制覇の戦い

 三州を統一した島津氏は、豊後より南下してきた大友氏と対立したが、天正六年(1578)、これを日向の高城(耳川合戦)で破り、これより大友氏は守勢に立たされた。龍造寺隆信の筑後経略は、この間隙を縫って進められたが、その結果は龍造寺氏と島津両氏の対立となった。
 島津氏は、日向から肥後に進出したが、龍造寺氏は、鍋島直茂以下の主力を肥後に派遣する一方、筑前に進出して西南九郡を領有し、さらに龍造寺信周を豊前に派遣して北三郡を平定し、その勢力をもって島津氏に対抗したのである。
 筑後の在地領主の龍造寺氏からの離反は、このころから著しくなった。天正八・九年の蒲池鎮並、翌十年の田尻鑑種の離反がそれを代表する。こうして、天正十二年三月、龍造寺・島津両氏は全面対立したのである。隆信は鍋島直茂の諌言に耳を貸さず、大軍を率いて高来に南下したが、戦場においても直茂の戦術を突如変更し、みずから中央突破をこころみて、島原沖田畷で戦死した。
 隆信の戦死によって九州の政治地図は大きく変化した。龍造寺・大友・島津三氏の均衡関係が崩壊したのである。龍造寺氏は、隆信の嫡子政家が家臣鍋島直茂の補佐によって、ようやく旧領を保守する有様となった。直茂は、隆信の死後活発となった大友氏の動きに対抗して、筑後の防衛を固めた。ところが、大友方の強力な反撃の前に、筑後の諸士は多く大友方に帰参した。当時、八代にあった島津義弘は、三州の大軍をもって北上し筑後に侵攻した。こうして、龍造寺・大友・島津三氏の最後の攻防戦は筑後を舞台に展開されたのである。
 天正十三年(1585)、まず大友氏が龍造寺・島津両軍の挟み撃ちにあって敗北した。ところが翌十四年における筑紫広門の島津離反をきっかけに、島津軍は筑前・肥前に討ち入って広門を降し、高橋紹運の岩屋城、立花宗茂の立花城を攻撃した。このとき、紹運は自刃したが、宗茂は立花城に籠って最後まで抵抗した。  ここで、島津氏は筑前平定と豊後討伐を評議して結果、後者を優先させることとし、大友氏の本拠豊後に突入した。すでに大友氏が豊臣秀吉に救援を求めていたからである。大友宗麟の子義統は、島津軍の全面攻撃を受けて豊前に逃れ、豊後は島津氏の支配下に入った。
 こうして三州を統一するのに五十一年を要した島津氏は、三州統一後わずか十年の間に、 九州における中世以来の三すくみの体制を止揚させ、ほぼ全九州を制覇することに成功したのである。
・島津家久の旗指物

・出典:戦国大名系譜総覧所収=藤野 保氏論文/参考:三州諸家史・薩州満家院史
  



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