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沖田畷の戦い
●天正十二年(1584)●龍造寺氏 VS 島津氏



 肥前の龍造寺氏は、もともと少弐氏の被官であった。龍造寺隆信が家を継ぐと、主家を少弐氏を滅ぼし独立、異父弟の鍋島直茂、四天王と讃えられた百武賢兼・成松信勝・円条寺信胤・倉町信俊らの勇猛な家臣の活躍で、筑前・筑後・肥後に勢力を伸ばしていった。
 龍造寺隆信は「肥前の熊」と称されるほど武勇に優れた武将であった。しかし、隆信は武勇・知略には長けていたものの、残忍な性格も併せ持ち、新参の武将のなかには彼に心服していない者も少なくなかった。
 天正九年(1581)、北進を目指す島津氏は肥後の相良氏を降し、肥後に勢力を伸ばしてきた。これをみた肥前島原領主の有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じた。これを知った隆信は、嫡子政家に有馬討伐を命じたが、有馬氏は政家の妻の実家ということでもあり、有馬氏討伐は遅々として進まなかった。これにしびれを切らした隆信は自ら三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指した。一方、有馬軍の兵力は約3千で、晴信は島津家に援軍要請を出し、龍造寺軍に備えようとした。
 晴信からの援軍要請を受けた島津家中では、地理不案内の島原への派遣に対し否定的な意見を出す家臣が多かった。しかし、島津義久は「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」といい、島原への派兵を決定。派遣軍の総大将には末弟で、島津家一の戦上手といわれた島津家久が選ばれ、脇将として島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭三千が有馬氏救援に派遣された。
 島津軍の来援で、有馬軍は活気を取り戻した、とはいえ有馬・島津両軍あわせて六千余りの軍勢でしかなく、龍造寺軍の三万に対して態勢であることは変わらなかった。そこで家久は、有馬方の諸将と協議した上で、戦場場を島原北部の沖田畷とした。沖田畷は左右を沼沢に囲まれた湿地帯で、その中央に左右2・3人並んで通るのがやっとの畦道があるだけの地で、大軍を展開することが困難な場所であった。
・沖田畷の合戦-要図
 これに対して龍造寺隆信は、有馬・島津の主力軍は日野江城にいるものと思い込み、自ら沖田畷の中道へ軍勢を進めた。沖田畷付近で龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇、龍造寺軍は島津軍が小勢なのを侮り、物見も出さずに攻めかかった。策を秘めた島津軍は、たいした抵抗もせず、ずるずると後退し、勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め立てようと沖田畷の畦道をひた進んだ。
 家久は龍造寺軍が十分射程に入ったのを確認すると、一斉に銃弾を撃ちんだ。思わぬ銃弾の飛来に龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と続いてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱に陥いった。
 龍造寺軍の混乱ぶりを見きわめて、島津軍は一斉に抜刀し、三方から龍造寺軍に攻めかかった。隆信は、進展を見せない合戦に苛立ち、自らが前線に立ち指揮を取ろうとした。この時、島津家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が隆信に命中、龍造寺隆信は呆気無く五十六才の生涯を閉じた。二万余りの龍造寺軍は動揺し、鍋島直茂は退却。殿軍を受け持ったのが四天王の武将で、四名とも殉死に近い働きで、二万の将兵を無事に佐賀まで退却させりことに成功した。しかし、この合戦において、九州北部に一大勢力を築いた龍造寺は衰退を余儀なくされるのである。
 寡勢をもって、勢いにのる龍造寺氏の大軍を撃ち破り大将まで討ち取った、島津家久の作戦による大勝利であった。 これで島津氏にとって九州制覇への道が 大きく開けたのである。
  



戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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