赤罫 ヘッダイメージ



耳川(高城)の合戦
●天正六年(1578)●大友氏 VS 島津氏



・耳川の合戦図

 元亀三年(1572)島津氏は日向の伊東義佑を木原崎合戦で撃破。天正五年(1577)、伊東義佑は島津氏の攻勢に敗れて大友氏を頼り豊後へ逃亡し南日向は島津氏の勢力下におかれた。さらに、北日向土持氏らも島津配下に入り日向は完全に島津氏の支配下となった。
 この事態を重くみた大友宗麟は、天正六年(1578)四月、日向へ攻め入り、土持氏を蹴散らし耳川以北の北日向を制圧した。大友勢四万三千を率いた田原紹忍は、陸路を南下した。先鋒の佐伯宗天・田北鎮周は十月に、島津家・山田有信が守る高城を攻撃した。しかし、救援に駆け付けた島津家久率いる三千の兵を高城に入れてしまうという失態を犯し、戦線は膠着状態に陥ってしまった。
 大友勢は高城に対して攻略戦を行ったが、落とすことはできず、逆に損害ばかり増やす結果となった。そして、城の周囲を包囲し、外部との通行を遮断して兵糧攻めに作戦を変えた。十一月初め、島津義久は高城救援のために四千の兵を率いて、日向佐土原に着陣。島津義弘も飯野を出発し、財部城に兵を入れた。
 一方、野津に後詰として陣を置いた大友義統は、肥後の相良義陽と協力して肥後から日向を攻撃する作戦を立て、志賀親教・同鑑隆・朽網宗歴・一万田宗慶らの南郡諸将を肥後に送り込んだ。しかし、これらの南郡衆は日向攻めに反対した武将達で、相良義陽と合流することなく、一ヶ月以上も肥後から動こうとはしなかった。
 大友軍の総大将である田原紹忍は、島津勢を少勢と侮り、小丸川を渡河。十一月十二日、高城を中心として、島津と大友の両軍が激突。数におごる大友勢に対して、島津軍は正面から島津義弘、側面から島津義久、さらに高城から島津家久が大友軍に攻撃を行った。三面から攻撃を受けた大友軍は、支え切ることができず壊滅的な打撃を受け敗走。逃げる大友軍を追撃する島津勢は「耳川」で大友軍を捕捉し、大友方の討たれる者、溺死する者は数知れず、戦死者は四千余りとなった。まさに、島津軍の大勝利となった。
 大友軍の敗因としては、総大将である田原紹忍の油断と無謀、決戦に際して高城籠城勢を蔑視し警固を怠ったこと。そして、高城の危機は、三州(薩摩・大隅・日向)全体の危機として捉えた島津義久の気合いが勝っていたことがあげられよう。さらに、島津軍を指揮した島津義弘の伏兵・誘兵の巧妙を極めたことも大きかった。何よりも、大友軍の大将宗麟が後方にあったことに対して、島津軍は大将義久自らが陣頭にたったことで、島津軍の将士の士気が大友軍のそれを凌駕したことが島津方に勝利をもたらしたといえよう。
 高城・耳川の敗戦の情報は大友宗麟に対して過大に報告され、随行していた宣教師達の進言にも耳を貸さずに、大友宗麟は失意の内に豊後・府内に退却した。敗戦後、豊後・豊前・筑前の大友領内では国人衆の謀反が頻発、さらに、肥前の龍造寺隆信は大友宗麟に敵対するようになった。耳川・高城の合戦に勝利した島津家は、念願であった三州(薩摩・大隅・日向)を統一し、隆盛を極めた大友氏には衰退の陰が大きく被うようになったのである。耳川の合戦は、文字通り九州における覇権を左右する戦いとなったのである。
  



戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ

どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク