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木崎原の合戦
●永禄十一年(1568)●島津氏 VS 伊東氏


 伊東氏と島津氏との本格的な抗争の始まりは、応永四年(1397)のこととされている。以来、十四世紀末から十五世紀前半にかけて、川南の支配をめぐって争いが続き、この争いを通じて荘園は武家によって押領されていった。さらに島津氏と伊東氏との争いは、結局、天正五年(1577)伊東氏が日向を追われるまで続く。
 十五世紀の中ごろ、祐堯・祐国二代のころから次第に強大となり、伊東氏全盛の基礎がつくられた。祐堯は1440〜50年にかけて、川南の曾井城、石塚城を中心に領域を拡げ、島津氏を山西に退けた。祐国の代になると、飫肥城をめぐる島津氏との争いが頻繁に行われるようになり、特に文明十六年(1484)と翌年の戦いは戦史に残っているほどだ。
 義祐の代になってからもたびたび飫肥城の争奪戦が伊東・島津両氏の間で繰り広げられ、ついに永禄十一年にいたり、島津忠親は城を伊東氏に明け渡した。
 永禄十一年(1568)に島津忠親を降して飫肥南部の地を手に入れた義祐は、以後、日向国西南部の真幸院の奪取に全力をあげるようになる。真幸院領主であった北原兼守は義祐の女婿であったが、その死後は、南の島津氏、北の相良氏らとの争奪の地となり、島津義弘は真幸院の中心である加久藤城・飯野城を手に入れ、ここに拠った。これに対して伊東氏は三之山を手に入れ、加久藤・飯野進出を狙って島津軍と対峙した。

■木崎原の合戦-要図

図:「裂帛-島津戦記」掲載の図を参考に作成

 八月、伊東氏は大軍を三之山に集め、飯野桶ケ平に陣した。元亀二年(1571)には、数度の小競り合いがあったが、翌三年五月、伊東軍は加久藤城を目指し三之山を進発した。その軍勢は伊東加賀守以下三千といわれる。一方、飯野城を守る島津義弘軍は三百であったという。伊東軍は飯野城を北に見て白鳥山麓を通り加久藤城下に押し寄せた。
 その頃、わずか三百足らずの手勢で飯野城を出撃した義弘は、本地口の守備に五十人を割き、主力の二百三十人を率いて加久藤城に向かっていた。二八坂に進出した義弘はさらに兵を分け、六十人に飯野川北岸を先発させ、四十人を白鳥山麓の野間門に伏せた。
 一方、島津軍の後詰の動きを察知した伊東勢は、白鳥山方面への撤退を開始した。ところが、その撤退路を白鳥権現の氏子三百余人が鉦を打ち鳴らし、喚声をあげて遮った。これを伏兵と見誤った伊東勢は、方向を転じて山を下りはじめたところで、二八坂から南下してきた義弘勢の主力百三十人と鉢合せした。義弘は味方の集結まで伊東勢を足止めするため、無謀にも十数倍の伊東勢に襲いかかり、敗走した。
・木崎原合戦の古戦場
 逃げ崩れる義弘勢を追って木崎原に押し出した伊東勢を待ち受けていたのは、想像を絶する光景であった。川内川の向こうの三角田まで後退した義弘は、そこで素早く手勢を立て直し反撃に転じたのである。この義弘勢の素早い立ち直りを予想もしていなかった伊東勢は、この逆襲で混乱したところへ四方から島津軍に襲いかかられ、四分五裂となって逃げ崩れた。伊東勢は大将伊東加賀守ら多数の将兵を失って壊滅、島津義弘の大勝利であった。
 世に「木崎原の合戦」と呼ばれるこの戦いは、南九州の桶狭間とも称される。木崎原の合戦で伊東方は、伊東一門の大将五人をはじめ奉行や各外城の地頭ら二百五十人を失い、その影響は深刻で、伊東氏衰退の引鉄となった合戦でもあった。
 その後、伊東氏配下の高原城の地頭福永氏が島津氏に下り、続いて三つ山・須木・野久尾城は落ち、天正四年二月には、県土持氏の軍勢が押し掛けてきた。同五年十二月、野尻城を守っていた福永丹波守が島津方に通じ、野尻城は落城、さらにその後二十日もたたぬ間に、日知屋・門川・塩見の三城まで降ってしまった。ここに至り、伊東主従は、豊後の大友宗麟をたよって落ちていかざるをえなかった。
●写真は、島津義弘 から転載させていただきました。深謝!   
  



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