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島津義久
●天文ニ年(1533)〜文禄四年(1611)


 島津氏は惟宗姓・源姓・藤原姓の三説がある。源頼朝の落胤説は、すでに江戸時代においても疑問視され、現在では単なる伝説とされている。信頼できるのは惟宗姓といえるようだ。初代の忠久は頼朝から薩摩と大隅の守護職に補任され、のちには日向の守護職も得て、島津氏は南九州一の大族として歴史に名をあらわした。
 三代久経、四代忠宗のころから盛んに庶子が分立し、室町時代にはそれら庶氏家が独立して大名化する動きもあり、宗家としての島津氏の威令が及ばないということもあった。そして、勝久の代に忠良を迎え国事を託し。忠良の活躍によって、忠良の子貴久が宗家を継ぐことになった。この貴久が戦国島津氏の基礎を築くことになった。貴久のあとを継いだ嫡男の義久は、義弘・歳久・家久の三人の才能に溢れた弟たちの協力を得て、島津氏を九州最大の戦国大名に押し上げたのであった。
 島津氏中興の祖、日新斎忠良が孫の四人を評した言葉がある。「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」というもので、兄弟それぞれの個性と能力を見事に予言した、といえよう。

●義久の版図拡大

 義久は、天文ニ年(1533)伊作にて誕生。島津氏の主城は、鹿児島市内の清水城だが、貴久は一時伊作城に城を移しており、義久・義弘・歳久・家久の四人兄弟とも、伊作で誕生した。
 永禄九年(1566)、貴久から家督を継いだ義久は、弟の義弘らとともに領土拡張に乗り出し、元亀三年(1572)、日向の伊東義祐を木崎原合戦で撃破し、日向を制圧した。伊東氏は豊後に逃亡し大友義鎮を頼っり、天正六年(1578)、大友宗麟は伊東氏とともに四万五千の大軍を率いて南下し日向中部まで進出した。高城を包囲するが、義久らの援軍が到着すると敗走し、耳川においてほぼ全滅。宗麟のみ辛うじて豊後に逃れえた。この敗戦を機に九州の最大勢力であった大友氏は衰退していく。
 天正九年(1581)には、肥後の相良氏を討ち、翌年には、阿蘇氏、合志氏らを服属させ肥後を平定した。これをみた肥前島原領主の有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じた。これを知った龍造寺隆信は、三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指した。有馬晴信は島津家に援軍要請を出した。
・写真:鹿児島城祉
 晴信からの援軍要請を受けた島津家中では、地理不案内の島原への派遣に対し否定的な意見を出す家臣が多かった。しかし、島津義久は「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」といい、島原への派兵を決定。派遣軍の総大将には末弟で、島津家一の戦上手といわれた島津家久が選ばれ、脇将として島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭三千が有馬氏救援に派遣された。
 そして、天正十ニ年(1584)、島津・有馬連合軍六千の兵と龍造寺氏の大軍が、沖田畷で激突した。沖田畷の地は大軍を展開することが困難な場所で、寡勢をもって龍造寺軍を迎え撃つのに絶好の地として家久が予定戦場とした地でもあった。戦いは、家久の思う壺に展開し、ついには龍造寺隆信を討ち取る大勝利に終わった。この合戦において、九州北部に一大勢力を築いた龍造寺は衰退を余儀なくされるのである。そして、家久は、さらに筑前に進出し、筑紫広門や高橋紹運を下した。
 島津家は下剋上の戦国期において、珍しく親子兄弟の衝突が無く、義久を大将に義弘・歳久・家久ら四兄弟の結束は固く、秀吉軍に敗れるまで変わることはなかった。ところで、義久は、和歌や連歌にも秀で古今伝授を受けており、桂菴玄樹による朱子学、薩南学派の流れで南浦文之らにも師事した文化人の側面も有していた。晩年には龍伯と号した。
 天正十三年(1585)、弟義弘に家督を譲った。とはいえ、その後も島津氏の政治に関与していたようだが、 文禄四年(1611)、正式に引退し、慶長十六年(1611)、大隈国分で死去した。享年七十九歳。
  



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