赤罫 ヘッダイメージ



その後の島津氏


 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦で島津義弘は西軍に与したのであった。しかし、三成の再三の催促にも関わらず、 三成堅として動かず、かといって戦場を離脱することもなかった。そして、西軍の相次ぐ敗退、裏切りで、 西軍方で残るのは島津軍のみとなり、ついに敵かた徳川家康の本陣前を通過し、伊勢へ向かう敵中突破を 企てた。
その戦法は、座禅陣といわれ、追撃する敵に対し、殿軍の者から順に立ち止まって敵に 向かうのである。まさに義弘の帰国のみを意図した戦いぶりで、のちに島津の退口としてむしろ 評価されることとなった。 ・島津義弘 肖像


巧みな駆け引き

 関ヶ原を脱出し、帰国した義弘は、家康との合戦に備えて、直ちに国境を固め防備を増強した。 かくしたうえで、島津氏は家康に対処し、交渉をはじめ、家康の恩義を大事にしており、 秀頼へ誓書を出していたため西軍に荷担せざるをえなかったと弁明をしながらも、決して島津側に非はなかったと 強硬路線を曲げなかった。
 この島津側の強硬外交は、家康の根負けで同七年四月に幕をおろした。すなわち、家康は薩摩・大隅・日向の 旧領をすべて義久に安堵し、これを家久に相続させることとし、義弘も許すという誓書を出している。 そして同年十二月、家久は伏見城で家康と会見し、ここに関ヶ原合戦のことはケリがついたのであった。
 ここに至るまでの島津氏の一連の交渉は、西軍諸将がいずれも減・転封か没収のなかで、 旧領を安堵されるという大勝利を収めたものと評されているが、まさにその通りであろう。 この交渉のなかで、島津氏は近世大名として家康より認知され、家久が島津藩の初代として登場するのである。

薩摩藩の苦悩

 宝暦三年(1753)、島津氏に御手伝普請の命令が幕府より伝えられる。木曾川の治水工事であった。島津藩としては、当時、いずれの大名もそうであったように極度の財政難に見舞われており、この治水工事は何としても受けたくないものではあった。が、家老平田靭負が総奉行となり、総人数千人ほどを率いて現場へ向かい、幕府の企画設計・監督の下で懸命な努力と苦闘で作業に従った。事業の完工後、出費が予想を大幅に超過し、部下に八十人の犠牲者を出したことに責任をとって平田靭負は自刃した。今「薩摩義士」として、彼等の業績をたたえる祭も行われている。けだし、当然のことであろう。時の藩主は重年で、この御手伝普請の心労で若死にした。
 悪化する一方の財政のなかで、重豪が藩主を継承し、積極的な開化政策を実施した。しかし、この政策はさらに財政を圧迫したことから、茶道頭調所笑左衛門が抜擢されて、島津藩財政の立て直しを企て、借金の返済免除、黒糖専売、貨幣の鋳造と相次ぐ新規の政策で財政再建の目標を達成している。その財政再建策のなかには、密貿易も含まれていたことはよく知られている。
 幕末も近い嘉永四年(1852)に至り、島津氏歴代でも出色の明君と賛えられる斉彬が襲封した。しかし、この襲封に至るまでは、重豪の奔放な政策によってどん底に陥いった財政を再建した父斉興をはじめとするグループによって、斉彬が中年に至るまで実現されることがなかった。すなわち、斉彬の聡明・豪放な性格と開明主義が、重豪に似ていることに危惧を抱かれたことがその要因であった。この間、斉彬を藩主にと願うグループの粛正(お由羅騒動)などもあり、最終的には幕府老中阿部定弘の斡旋で、斉彬の藩主襲封が実現したのである。


幕末の雄藩

 斉彬は日本が国際社会のなかで、どう発展していくべきかを考え得た、当時並ぶ者がいない広い視野をもった人物で、朝廷をはじめとしながら、幕府諸大名がそれに従うスタイルで公武一和しようという積極的武備開国を主張した。また、藩政には身分にとらわれず抜擢する方針で臨み、西郷隆盛・大久保利通・五代友厚らを評価し、かれらが明治維新で働く素地をつくっている。
 安政五年、井伊直亮の暴政を質すための出兵を企図し、領内の天保山で城下士の連合大演習を指揮した直後、急逝(毒殺説もある)したため、その意図は挫折した。が、明治維新の元勲といわれる人々の原点となったことは間違いない。その後は、由羅出生の弟久光の子忠義が相続して島津藩主となった。

■江戸時代の島津氏系図

  


  



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