戸次川の戦い
●天正十四年(1586)●島津氏 VS 豊臣方四国勢(長宗我部氏・十河氏等)
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島津氏が大友氏を耳川で破り、龍造寺氏を沖田畷に降し、ようやく九州の覇者の地位を掴みかけた頃、時代は大きく動いており、戦国時代も終盤に 差し掛かろうとしていた。豊臣秀吉は島津義久に大友宗麟への攻撃を中止するように命じた。しかし、義久は秀吉の命令を聞かず、 大友への攻撃の手を緩めりことはなかった。大友氏は島津氏の総攻撃を前にして秀吉に救援を求めるため、上坂した。これを容れた秀吉は中国の毛利氏へ九州島津征伐への進軍を命令。毛利軍は四万で筑前方面へ進出した。
一方、四国勢にも天正十四年(1586)十月、秀吉から豊後出陣の命が発せられた。豊臣軍は仙石秀久を四国勢の目付とし、先鋒には十河存保五百余人、讃岐の先鋒に大将香西縫之助・北条香川民部少輔・寒川七郎・安富肥後守・佐藤志摩介・羽床弥三郎、その他が秀吉の命を受け戦陣に加わった。そして、土佐勢の長宗我部元親、その嫡子信親らが出陣した。
島津軍と四国勢との決戦の場は豊後戸次川の河原であった。島津軍を前に、戦に馴れた十河存保・長宗我部元親らは大友勢の到着を待って渡河する、あるいは島津軍の渡河を誘ってそれを叩く策を秀久に勧めたが、功にはやる仙石久秀はかれらの意見を無視して、島津軍に攻撃を開始すべく行動を開始した。
豊臣方は淡路勢を先陣に第二陣の讃岐勢と信親の土佐勢先手、元親の土佐勢主力という陣容で大野川を越えた。豊臣方は島津勢の前哨部隊を蹴散らして鶴賀城を目指した。
これに対し、島津家久は急追する淡路勢を見て、反撃のノロシを上げさせた。最初に崩れたのは淡路勢だった。兵力三千ほどの新納隊は、淡路勢に正面から激突しほとんど瞬持にして粉砕し、秀久を遁走させた。しかし、新納隊がつぎに交戦した土佐勢先手は、信親の指揮で頑強に抵抗した。新納隊は猛反撃に押し返され、一進一退の乱戦となった。これに東に向かっている讃岐勢が方向を転じ、土佐勢の主力も加われば、新納隊は優勢な敵の集中攻撃を浴びることになるはずだった。
しかし、そこへ伊集院隊が押し寄せ、土佐勢を前後に分断した。さらに山間を迂回した本庄勢が讃岐勢を側撃した。こうして島津方に包囲された豊臣方は、壊滅的な敗戦を蒙った。
■戸次川の戦い-要図
「裂帛-島津戦記」掲載の図を参考に作成
合戦の最中、十河存保は「今日の合戦は仙石氏の謀略のまずさによるといえども、恥辱は先手にあった将帥にあり、長宗我部信親引き返って勝負を決したまえ。存保加勢申さん」といい遺し、存保は馬に乗って走った。聞いた信親もともにとって返し敵の中に突入し、壮烈な戦死を遂げた。存保も『南海通記』に存保いよいよ最後の戦いという時、一子千松丸を秀吉の前に伺候させるよう。家臣に頼み残して敵陣に乗り込んでいった。そして十二月十二日、奮戦虚しく島津家久の猛攻の前に戦死。享年三十二歳であった。
一方、無謀な作戦が裏目に出て豊臣軍の大敗を招いた仙石久秀は、いちはやく戦場から離脱した。戦後、敗戦の罪で、讃岐を没収されたが、のちに復活して近世大名として生き残った。秀久の無謀から始まった合戦に勇戦戦死した存保・信親らは草葉の蔭でどのような感慨を抱いただろうか。
しかし、この合戦に島津氏は勝利したものの、その後の豊臣勢との戦いは敗戦続きとなり、結局、島津氏は軍を薩摩に戻し、豊臣秀吉に降るに至った。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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