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磯野氏
●笹竜胆/六つ星
●源姓/菅原姓とも  
・「近江の磯野氏」に記載された家紋。  


 磯野氏は近江国湖北四家の一とされ、戦国時代にあらわれた丹波守員昌はもっとも知られている。『磯野氏系図抜粋』によれば、「上阪土佐守源貞員(貞次嫡男也)、上阪城を嫡子員信に譲り、その後磯野山城を築き、二男刑部員友を城主と為し、三千町を譲る」とあり、磯野氏は京極家の重臣上坂氏から分かれたようにも思われる。しかし、系図抜粋の記述を裏付ける史料は存在しない。とはいえ、磯野氏と上坂氏の関係を思わせる古文書が伝えられているが、それをもって血族関係にあったとすることは難しい。
 一方、『淡海木間攫』には「磯野氏は代々相続して磯野に在城せり。京極の旗頭也。磯野右衛門大夫貞詮息、源三郎為員は精兵武勇其名世に高し。永正年中(1504〜20)磯野山に籠城の時、山本山の城後詰して戦死す。弟源十郎家を継ぎて浅井氏に属す。員詮が弟、伊予守貞吉は佐和山に在城たり。」とみえている。そして、子のなかった員吉は一族の宮沢平八郎を養子とし、平八郎の子が磯野丹波守員正(員昌)であると記している。
・磯野氏縁りの赤見神社


磯野氏と浅井氏の闘争

 磯野氏は京極氏に仕え、一方の旗頭であったことはまず間違いないようだ。やがて、十六世紀になると磯野氏と同じく京極氏の被官である浅井氏がにわかに勢力を拡大し、ついには京極氏の存在を脅かすようになった。
 さきの為員の戦死について「系図抜粋」の平八郎員宗の註によれば、永正十四年(1517)、浅井備前守亮政が上坂、今浜の両城を乗っ取り、勢いまことに盛んとなった。それに対して、浅見対馬守が山本山に立て籠って亮政に対抗した。磯野右衛門大夫は浅見氏に味方し、一族七百余騎を率いて磯野山に立て籠った。
 対する浅井亮政は二千余騎を率いて磯野山城を攻撃したが磯野氏の守りは堅く、無双の勇士として名高い員詮の嫡子為員の奮戦もあって浅井軍を寄せ付けなかった。力攻めの愚を悟った亮政は、一旦、兵を引くと謀略をもって磯野一族の離間策を企んだ。すなわち、磯野一族の宮沢忠左衛門が為員に遺恨をもっていることを探りだし、忠左衛門を篭絡してのち、ふたたび浅見氏の山本山を攻めたのである。
 為員は山本山を支援するため出陣、忠左衛門は男子平八郎、浅井氏の兵らとともにその帰路を待ち伏せし、為員を攻めたてた。為員は奮戦したものの、すでに矢種はつきており、ついに討ちとられてしまった。その後、平八郎は佐和山城主磯野伊予守員吉の養子に迎えられ、員宗と名乗り佐和山城主になったという。
 しかし、源三郎為員が戦死したのは、天文元年(1532)八月に上坂治部大輔が磯野右衛門大夫にあてた軍忠状から、天文元年の間違いであろうと思われる。

丹波守員昌の活躍

 いずれにしろ、佐和山城主となった平八郎員宗のあとは弟の員清がつぎ、員清のあとを員宗の嫡男員昌が継いだと伝えている。
 員昌は丹波守を称し、江北の戦国大名にのしあがった浅井氏に属して数々の合戦に出陣、磯野氏歴代のなかでもっとも名をあらわした。員昌は浅井亮政が京極氏の拠る高島城攻撃を企図したとき軍議に加わり、合戦になると先陣をつとめた。また、浅井氏と六角氏とが戦った四つ木の合戦には、浅井氏の一方の大将として出陣し奮戦した。
 浅井氏は江北の大名に成長したとはいえ、鎌倉期以来の近江守護として江南に一大勢力を誇示する観音寺城主六角氏には押されぎみであった。永禄年間(1558〜69)、坂田郡米原にある太尾城を占領した六角氏は、小谷城に迫る勢いを示して浅井氏を脅かした。
 太尾城は浅井氏に属する有力国人今井氏の支城であり、これが占拠されたことは浅井・今井氏はもとより、佐和山城の磯野氏にしても看過できない事態であった。夜襲をもって太尾城奪還を狙った今井定清は、浅井長政に救援を求めると、長政は磯野員昌に今井氏応援を命じた。ところが、今井氏と磯野氏の間で夜襲に関する取り決めが不備だったのか、今井定清は員昌の部下によって誤殺されてしまった。
 合戦後、定清の思いがけぬ死に対して浅井長政は弔慰を示し、員昌も部下の失態を深く詫びて今井氏に起請文を送った。そして、定清の遺児をもりたてることを約束している。しかし、この今井定清横死のことは、今井氏の進退の曖昧さを疑った浅井氏の陰謀が背後にあったともいわれている。

信長の登場と浅井氏の滅亡

 やがて、尾張の織田信長が勢力を拡大すると、浅井長政は信長の妹お市を妻に迎え、信長と同盟を結んだ。永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じた信長が上洛の軍を起すと長政はこれに協力、一方、信長の上洛を阻止せんとして観音寺城に立て籠った六角氏は没落した。こうして、浅井長政は織田信長の盟友として、その勢力は磐石になったかと思われた。
 しかし、元亀元年(1570)、信長が越前朝倉氏攻めを開始したことで、長政は苦しい立場におかれた。このとき、浅井氏は朝倉氏を支援するとする父久政派、信長に味方する立場の長政派に分かれた。結果は父久政の意見によって、浅井氏は信長に対立する道を選んだのである。浅井長政は信長軍の背後を突いたが、信長を討ち取ることはできなかった。
 京に逃げ帰った信長は態勢を立て直すと、浅井氏攻撃の陣を起したのである。かくして、元亀元年六月、織田信長・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍とが姉川で激突するに至った。これが、戦国史上有名な「姉川の合戦」であり、この戦いに浅井軍の先陣をつとめた磯野員昌は、精兵一千五百余を率い織田軍に突撃した。
 磯野勢は織田方の坂井政尚の軍を一蹴すると、進んで池田信輝の軍を撃破し、さらに木下藤吉郎、柴田勝家の陣を突破、第五隊の森長可の軍と戦いを交える奮戦ぶりを見せた。しかし、大軍を擁した織田軍の厚い兵力に苦闘を強いられ、さらに、徳川別働隊の攻撃に動揺した浅井・朝倉連合軍は総崩れとなった。大勢の決したことを察した員昌は、ただちに兵をまとめると、氏家・安藤らの諸軍を突破して佐和山城に逃げ帰った。
 ほどなく、信長軍が佐和山城を攻撃してきたが、員昌は城を堅く守ってこれを撃退した。以後、佐和山城に立て籠って信長軍の包囲勢と対峙した。包囲軍の将丹羽長秀は員昌に降伏を勧めてきたが、員昌はそれを拒否して籠城を続けた。翌元亀二年、信長は兵二万を率いて近江に出陣してきた。員昌は小谷城の浅井長政に援兵を求めたが援兵は来ず、ついに員昌は佐和山城を出て小谷城に入らんとした。しかし、員昌を疑う長政は入城を拒んだため、進退に窮した員昌は織田軍に投降するしかなかった。浅井氏はその後も信長に抵抗を続けたが、天正元年(1573)に小谷城は落ち滅亡した。

磯野氏の没落

 信長に降った員昌は、高島郡を与えられると新庄に居城を置き織田軍の一翼を担った。信長にしても近江土着の磯野氏をして近江国の治安にあたらせ、高島郡朽木を本拠とする朽木元綱を配下に組込むなど、相応の限を与えたようだ。かくして、信長麾下となった員昌は、天正元年、信長を狙撃した杉谷善住坊を捕縛、天正三年の越前国の一向一揆衆の殲滅戦に参加して活躍した。
 しかし、天正六年二月、信長の怒りをかった員昌は出奔、以後、行方知れずになった。出奔の理由には諸説あるが、信長の甥信澄を養子に迎えていた員昌に対して、信長は所領である高島郡を信澄に全て譲れと命じあっれたことに抵抗した結果ともいわれる。いずれにしろ、員昌の出奔によって磯野氏は没落の運命となった。
 系図によれば、員昌には男子一人、女子二人の子どもがあったといい、一男は加茂三郎と称し、のちに森惣左衛門と改め、森村に蟄居したと伝えている。・2008年03月26日

参考資料:近江国伊香郡志/織田信長家臣団事典/近江の磯野氏 ほか】



■参考略系図
 


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