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細見氏
三つ星に菊
(竹内宿禰後裔紀姓)

 細見氏は伝説的な大和朝廷初期の大臣竹内宿禰の後裔という紀長谷雄の後裔と伝えられている。『紀氏細見伝』によれば、紀氏の一族が長谷村に住みつき、細見大丞と名乗ったのがはじめという。他方、細見氏が紀姓であったことは、細見谷の中出、辻、中嶋、西谷の四ケ村の産土神である梅田神社が細見氏の祖先である紀忠通を祀っていること、大永五年(1522)春日神社の本殿再建に関わる棟札に出てくる紀氏が細見氏を指していることなどからも知られる。
 細見氏の祖という大丞は、足利義満の重臣で丹波山国に蟄居していた細川頼之にみいだされ、頼之に仕えるようになった。以後、頼之にしたがって功があり、兎原・多紀あわせて十六村を知行した。そのため、長谷村も細見村と呼ばれるようにあったのだという。ところで、細見姓は細川氏の一字をもらったともいい、細見氏の家紋「三つ星」は細川氏の家紋「九曜」の三分の一を賜ったと伝えている。
 細川氏と細見氏の関わりが、所伝のようなものであったのかの真偽は分からない。とはいえ、細川氏が丹波守護を世襲するようになると、細見氏も他の丹波諸領主とともに細川氏の麾下に属するようになったことは疑いない。また、『幻の鎌谷城と丹波薬師寺』によれば、細見頼春が鎌谷城に拠り勢力をもっていたという。頼春の名乗りが頼之に通じているところも、細見氏と細川氏の関係が背後にあるように思われる。

乱世を生きる

 応仁の乱をきっかけとして世の中が乱世になると、幕府将軍の権威は失墜し、管領細川氏が幕政を壟断した。しかし、永正四年(1507)に細川政元が家臣のク−デタによって殺害されると、細川氏二流の争いが展開され、その影響は丹波の諸領主にもおよんだ。細見氏に伝わる古文書の一通に細川高国のものがあり、高国は細川晴元と抗争を繰り返し、ついには京都から没落した人物である。高国は諸国を放浪したすえに播磨の浦上氏の支援を受けて、享禄四年(1531)、細川晴元と三好一党と天王寺で戦い敗れて戦死した。この天王寺の戦いに細見山城守が高国方として出陣、戦死したことが知られる。
 細川氏の没落後、丹波は諸将の集合離散が繰り返され、そのなかから八木城の内藤氏、八上城の波多野氏、黒井城の赤井氏が勢力を拡大した。やがて永禄十一年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、丹波諸将は信長・義昭政権に帰属した。ところが、義昭と信長が対立するようになると丹波勢は義昭に味方して信長から離反した。
 信長にしてみれば、京都の背後に広がる丹波に割拠する丹波勢を放っておくことはみずからの立場を危うくしかねないものであった。、かくして、天正三年(1575)、信長は部将明智光秀を大将に命じ、丹波攻めを開始したのである。小畠氏、川勝氏ら明智氏の丹波進攻に協力するものもあったが、ほとんどの丹波諸将は織田勢への対立姿勢を示した。
 天正四年、丹波に攻め込んだ明智光秀は黒井城まで迫ったが、「赤井の呼び込み戦法」に敗れて兵を引いた。このとき、草山砦(草山城・本郷城)に拠る細見将監信光*は、敗走路に位置する鼓峠において八百里城主畑牛之丞守能とともに明智軍を撃破したという。しかし、天正四年の明智光秀は、大坂石山本願寺攻めに従軍し、ついで病に臥して丹波に出陣できる状況ではなかったようだ。「赤井の呼び込み戦法」は軍記物の創作と思われ、細見将監の奮戦も怪しくなってくる。とはいえ、細見将監がそのように明智方に対して奮戦したということもあったのだろう。

『多紀郡郷土史話』によれば、細見将監信光は南北朝時代末期の人物とあり、系図などからも戦国時代を生きたとは思えない。将監は代々の細見氏の惣領が称した官途であり、何人もの将監がいたことは記録などからもうかがえる。細見氏は左近将監信光のあと、信秀、家盛、家信と継がれたようだ。鼓峠で明智軍と戦ったのは、左近将監家信の子次郎右衛門(宗信か)といい、家信父子は波多野氏が討たれると本郷城において自害したと伝えられる。

・細見将監が明智軍を破った鼓峠  ・細見氏の菩提寺─松隣寺、後方の山上に本郷城があった


戦国時代の終焉

 明智光秀の丹波攻めは、天正七年の黒井城の陥落をもって終わった。その間、多くの丹波諸将が滅亡あるいは没落していった。細見氏も例外ではなく、のちに篠山藩士となった者もいるが一族の多くは武士を捨てて帰農していった。『丹波志』をみると、中世の丹波に割拠した国人領主の子孫のことが記され、細見氏の記述もみられる。
 現在、篠山市本郷にある曹洞宗・龍駒山松隣寺は、鼓峠で奮戦したという細見将鑑信光の院号「松隣院殿」にちなみ、 細見氏一族の菩提寺としていまも静かに佇んでいる。・2007年05月10日

参考資料:三和町史/丹波志/幻の鎌谷城と丹波薬師寺 ほか】


■参考略系図
・『幻の鎌谷城と丹波薬師寺』で復元された細見氏系図を転載。内容的には疑問の多いものだが、まとまった細見氏の系図としては貴重なものといえそうだ。


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