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尼子氏 三村氏 安芸武田氏 陶 氏 大友氏 織田氏

 
  
家紋をクリック 尼子氏
近江源氏佐々木氏の流れで、出雲の月山富田城を根拠とし、十六世紀初頭には、 山陰・山陽の両道に覇をとなえた代表的戦国大名である。経久の代にいたって全盛を誇った。 経久は大内氏と対立し、毛利氏も尼子方に属した時期もあった。経久の跡を襲った孫の晴久は毛利氏の 拠る郡山城を攻めるが、これを落すことができず、元就の名を高らしめている。義久の代に毛利氏の攻撃を受け、 ついに月山富田城を開いて毛利氏に降った。
家紋をクリック 三村氏
承久の乱後、東国より備中国三村荘に西遷されたという。三村信濃入道は成羽荘の本主であった。戦国期には鶴首城・松山城を本拠にして、家親が毛利氏麾下で活躍したが、元親は毛利氏を離反したため、毛利氏・宇喜多氏に攻められて滅亡した。
家紋をクリック 安芸武田氏
鎌倉時代から室町時代を通じて安芸守護職をもった。承久の乱後安芸国佐東郡に入部し、鎌倉末には銀山城を本拠とした。南北朝期には足利方として転戦し、甲斐・安芸両守護を継承した。のち代々守護を改替され、佐東郡のみの守護となった。応仁の乱では東軍についたが、一族や家臣の反乱により尼子方に流れた。天文十年の郡山合戦で敗れ、銀山城は落城し滅亡した。豊臣大名となった安国寺氏は武田氏の遺児だという。
家紋をクリック 陶 氏
大内氏の一族で、五代盛政以後、歴代周防守護代を勤めた。若山城は陶氏の居城である。興房は大内義興に仕えて、戦国時代を生き抜いた。その子隆房(のち晴賢)も大内氏の柱石として各地の戦いに活躍したが、天文二十年、文に流れる大内義隆に叛旗を翻し主家・大内氏を滅ぼした。しかし、晴賢もまた安芸厳島で毛利元就と戦い敗れて討たれた。その後、孫鶴寿丸も毛利氏の追撃にあって自殺し、陶氏は滅亡した。
家紋をクリック 大友氏
鎌倉期以来の豊後の守護大名であった。義長・義鑑・義鎮の三代が戦国大名としての全盛期を築いた。義鎮は宗麟の名でも知られ、キリシタンとしても有名。戦国九州を島津氏・龍造寺氏と三分し、最盛期には北九州をその支配下におき、また、大内義隆の死後、弟の義長を大内氏に入れてその跡を継がせている。このころから関門海峡をはさんで毛利氏と対峙する。しかし、天正六年日向高城・耳川で島津方と戦い大敗を喫し、以後勢力は衰えた。
家紋をクリック 織田氏
戦国期の異端児・信長の出現で乱世は終息に向かったといえる。信長は尾張の一小大名であった信秀の嫡子に生まれ、以後、国内の統一戦をはじめ天下布武の戦いに明け暮れた。近畿地方をほぼ統一した信長は、やがて、豊臣秀吉をもって中国に進出した。そして、毛利氏と秀吉が備中高松城で対峙している、その最中に本能寺で光秀の謀叛によって落命した。やがて、その事業をついだ秀吉によって、天下統一がなされることとなる。




戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ


日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る…
諸国戦国史

丹波播磨
備前/備中/美作
鎮西常陸

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