仁賀保・矢島氏らと並ぶ由利十二頭の一家で、中世の由利地方に勢力をもった。しかし、その出自は諸説があって定かではない。 もっとも流布されているのが、楠木正成の三男正儀の男正家が元中二年(1385)、由利郡打越に拠ったのが始まりとされるもの。正家は、奥羽の南朝方を支援する目的をもって下向してきたものと考えられる。それを裏付けるかのように、由利地方には楠木氏に関わる伝承が残っている。 打越氏の家紋は、「三階菱」あるいは「一文字に三つ星」とされている。楠木氏であれば、「菊水紋」となるところだが、菊水紋を使用した形跡はない。 三階菱は、小笠原氏の紋であり、それを語るかのように小笠原遠光の庶子於曽光俊の後裔が、打越を名乗ったとするものもある。こちらは後代、足利将軍家に仕え、さらに徳川家に仕えて光久の時に嗣子が無く断絶している。また、同じ小笠原遠光の子長清から出た大井氏の後裔氏光が、打越を名乗ったとするものもある。 一文字三つ星から考察すれば、大江氏との関係も考えられる。これは同じ由利十二頭の一家である仁賀保氏と通じるところがある。すなわち、仁賀保氏は先の大井氏の後裔を称しているが、その家紋は「一文字に三つ星」である。 いずれにしても、中世の由利郡には、小笠原氏、大江氏、楠木氏らが割拠していたと考えられ、それらの諸氏が縁組みあるいは、養子などのことでそれぞれの家紋や家伝が混在していったと考えられる。その結果、打越氏の出自も不詳であるとしかいえない状態になったようだ。 ■参考略系図 |