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滝沢 (由利)氏
反り亀甲に花菱/抜け巴*
(清和源氏/大中臣氏後裔?)
*由利氏の家紋と云う。


 由利十二頭の一といわれる滝沢(由利)氏の出自は伝によれば、大中臣良平が源義家に従って軍功を挙げ、由利半郡を賜ったのに始まるとされる。良平は油理氏を名乗っていたようだ。しかし、『由利家系』によれば清和源氏の流れと伝えるなど正確なところは不詳である。

由利氏という存在

 由利氏で明らかな足跡を残している人物は由利維平で、維平は由利八郎とも中八維平とも言われた。『吾妻鏡』に「泰衝の郎従由利八郎」と見えるように、奥州藤原氏に臣従して由利支配を保っていたことが知られる。平家を滅ぼした源頼朝は、文治五年(1185)、奥州征伐の進撃計画をたてた。奥州全体を直接支配地とし、直臣の武士団を配置することで支配体制の確立をはかろうとしたのである。頼朝の侵攻に対し、藤原泰衝は将士を分散して鎌倉勢を迎え撃とうとした。このとき、維平は出羽口を田河・秋田らと警固していたが、比企・宇佐美軍と戦い、敗れて捕えられた。戦後、頼朝は奥州征伐の論功行賞を行い、諸将に所領を与えて、それぞれの地頭職に補任した。このころ、維平も許されて由利の旧領に帰り、郡地頭として鎌倉御家人となったのである。
 維平は「大河兼任の乱」で戦死し、そのあとを継いだのは維久と考えられる。維久は「和田の乱」に際し、北条氏勢に属して鎌倉の若宮大路で戦った。しかし、かれの放った矢を敵方がとって射返し、その矢が泰時の鎧に立ってしまった。これにより、維久を和田氏に与したと披露するものがいた。戦後、尋問が行われたが、矢に維久の名があり、窮するところとなった。時房の弁護もあったが、結局、所領を召し放たれた。
 維久が没落したあと由利郡は加賀美遠光の娘に与えられ、彼女は兄の子大井朝光を家の跡取りとして迎え、その所領を譲った。以後、現地に小笠原大井の庶流が移住して経営にあったたようだ。この間、由利氏は小笠原氏の地頭支配のなかでも存在はしていたようだ。そして、頼久・国房など由利氏の名が散見するが、それらが由利の本流とどのように交わるのかは不詳である。
 ところで、由利政春が西目に浜館を築き全郡の旗頭と称した。しかし、対立していた鳥海弥三郎に急襲されて落城。鳴沢館を新たに築いて拠ったが、正中元年(1324)再び鳥海勢に攻められて落城、切腹したという。政春のあと、政久にいたり由利郡滝沢に領地を得て、滝澤に名を変えたとされるが定かではない。また政春から政久にいたる世系も諸系図によって整合しない。

滝沢氏の由利入部

 南北朝時代のはじめ、康永二年(1343)九月の結城親朝注進状に由利兵庫介の名がみえる。これは南朝方であった親朝が尊氏の勧誘に応じ兵を挙げたときのものである。このとき兵庫助もこれに応じたのであろう。この南北朝争乱のなかで、小笠原や由利の後裔たちが次第に所領を固め、独立を目指して、いわゆる由利十二頭を成立させていくのである。
 ところで、『打越旧記』には由利氏の子孫と称せられる滝沢氏の存在が認められない。応仁元年(1467)由利十二頭が結成された時には、滝沢氏が認められるから、その前後に所領の移動があったと見られる。そのような仮定が成り立つならば、今までの矢島大井氏の勢力圏内に、滝沢氏が入って来たところに、その後の矢島氏との衝突の原因があったとも見られる。
 戦国期になると、由利地方は北の安東氏、東の小野寺氏、南の武藤氏、さらに山形城の最上氏などの戦国大名からの圧力を受けざるをえなくなる。
 滝沢氏は以前から庄内と関係があり、庄内に近接している仁賀保氏と親しい関係にあったようだ。一方矢島氏は庄内とは反対の立場にあり仙北の小野寺氏と親交があったところから、滝沢氏と矢島氏は対立する関係におかれた。加えて、滝沢氏との対立は矢島氏にとって海岸に到達する道をふさがれることになり、それは塩の道を閉ざされることにもつながり、死活間題でもあった。
 永禄二年(1559)秋、滝沢領の百姓と矢島領の百姓との間に争いが起り、それが発端となって滝沢氏と矢島氏は武力抗争を引き起こした。滝沢氏は矢島氏に対して劣勢で、仁賀保氏に支援を求めた。こうして、滝沢=仁賀保氏と矢島氏の間で合戦が行われ、紛争は拡大していった。そして、天正三年(1575)、滝沢氏は矢島氏に攻められ城主滝沢政家をはじめ多くの家臣が討死、政家の一子は鮎川、仁賀保を経て最上義光のもとへ逃れ最上氏に仕えた。

滝沢氏の復活と由利五人衆

 天正十七年の仁賀保・矢島両氏の合戦については、年代的に疑問が残るともされているが、この合戦を契機に滝沢氏が仁賀保氏の味方としてふたたび登場してくる。その背景には、おそらく最上氏の矢島氏・由利衆らに対する謀略があったことを想像させる。いいかえれば、滝沢氏は最上氏の由利地方に対する先兵的役割を担っていたものと思われるのである。
 その後、矢島氏は仁賀保氏をはじめとする由利衆の攻撃によって没落、頼っていった小野寺氏のもとで自害して矢島氏は滅亡した。こうして、しばらくの雌伏の時を経て滝沢氏は由利衆の一員として復活したのである。
 天正十八年(1590)小田原北条氏を降した豊臣秀吉は奥州仕置を行い、奥羽地方に太閤検地を行った。由利地方では、軍役賦課から推して赤宇曾氏四千五百石、仁賀保氏四千石、滝沢氏二千八百石、打越氏千六百石と割り出されている。そして、滝沢又五郎は赤宇曾治部少輔、仁賀保兵庫頭・岩屋能登守・内越宮内少輔とともに由利五人衆として豊臣政権に掌握されることになる。以後、滝沢又五郎は九戸の陣、文禄の役、伏見作事板などの軍役を賦課されそれを忠実に勤仕している。
 こうして、中世のままの由利衆体制は崩壊し、豊臣政権下の一地方機構として組み込まれ、再編成された。これは、由利地方の中世の終わりを告げるものでもあった。

時代の変転

 滝沢又五郎は、『滝沢氏家系』によれば、滝沢政光の子滝沢又五郎春永と見られる。しかし、文禄三年(1594)春永は兄の政家とともに矢島氏の残兵に攻撃されて自害したと系図にあり、この記述を信じるならば、又五郎は二人いたことになる。また、滝沢氏の家系図・家譜類には滝沢氏が豊臣政権から領地宛行の朱印状を受領したとする記述はまったくみえない。これらのことから、滝沢氏の近世に至る節目には、大きな不明点があるといわざるをえない。
 関ヶ原の合戦後、由利五人衆のなかでは、仁賀保氏と内越氏が幕臣として存続することを許された。そして、滝沢氏は最上氏の家臣として存続した。「滝沢氏家系」には、滝沢刑部少輔政道が慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて最上義光に属して軍功をあげ、翌年最上氏の旗下となり、家老職をつとめ同八年に由利地方が最上氏領化する過程で滝沢に封ぜられ前郷に築城したとある。また『最上義光分限帳』には、滝沢兵庫として「高壱万石、二十騎、鉄砲五十挺、弓十張、鑓百二十本」と記してある。
 滝沢氏は最上氏の家臣として一万石を領したとはいえ、陪臣の身分に降下したことでもあり、関ヶ原の合戦は滝沢氏にとってマイナスに作用したといえる。加えてそこには、徳川政権による由利衆の解体という大きな政治的意図が介在したと思われ、単なる関ヶ原合戦後における論功行賞という次元の議論ではくくれない背景があったようだ。
 その後、政道は慶長十四年家臣のために黒沢において殺害された。あとは弟の政範が継いで瀧澤兵庫頭と名乗った。ところが元和元年(1615)、最上氏が改易されたことで滝沢氏も所領を失い、政範は浪人してのちに六郷氏の家臣となったと伝えている。このようにして、中世の由利地方に一勢力を築いた滝沢氏は没落した。

その後の滝沢氏

 余談ながら、政道に勘兵衛という一子があった。慶長十七年信州松代に赴いて、川中島城主松平忠輝の臣花井主水に仕えたという。そして、その子の代に母方の姓三岡を名乗り、由利氏の紋章「三つ巴」を三岡の家紋「三つ亀甲」に替えた。その後裔にあらわれたのが由利公正で、公正は三岡の姓を由利に復興したものである。「反り亀甲に花菱」の家紋は、政範が用いたもので、六郷氏に仕えてのちは「亀甲」に替えたといわれる。

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■参考略系図
    


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