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本郷氏
丸に竪二つ引両
(村上源氏赤松氏範資流)


 播磨と丹波の境に、比延山城がある。城下には播磨西脇から丹波篠山へ通じる道が通り、城山からは西脇一帯が一望できる要衝の地である。この比延山城に拠ったのは赤松氏一族の本郷氏で、丹波との国境の守備に任じていたようだ。
 『播磨鑑』の比延山城の項を見ると、「城主は本郷弥三郎頼兼、父は掃部守(頭)直頼」記されている。本郷氏は播磨鑑にもあるように、赤松円心の嫡子範資の三男直頼に始まる。直頼は山名氏との戦いなどで功を上げ、赤穂にある有年城に拠って本郷を称するようになったという。直頼の子弥三郎頼兼も南北朝の戦乱のなかで、文和年間(1352553)の戦いや、山名氏が叛乱を起した「明徳の乱」における京都二条の戦いに戦功を上げた。
 その後、比延山城を築き、そこに移って以後、本郷氏代々は比延山城を本拠としたのであった。とはいえ、比延山城は戦時の詰城として機能し、普段は山麓に城館を営んでいたものであろう。本郷氏は直頼から八代を重ねて永禄〜慶長年間(戦国後期)に至ったといわれ、ついには衰退していったとされている。
 『西脇市史』には、比延(本郷)出羽守が秀吉に炭二十荷を送ったことに対し、秀吉から新しい市を認める礼状をもらったことが記されている。本郷氏は戦乱の世の中をうまく乗り切り、別所氏らが秀吉に対抗したときも赤松一族でありながら秀吉側に付いたことがわかる。しかし、武家領主として近世に生き残ることはできなかった。
 ところで、赤松一族の船曵氏の系図によれば、頼兼は江見氏から頼尚を養子に迎え、その子孫は用郡舟曳庄に城を築き、船曳氏となったとある。
………
●写真:比延城跡を見る



■参考略系図  


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