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浅井三姉妹−江
波乱万丈の人生を送り、恵まれた晩年を迎える
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天正元年(1573)、浅井長政と正室お市の三女として小谷城で生まれた。幼名は「督」で、『太閤素性記』では「小督御料人」、柳営婦女伝系』などでは「督」と音が通じる「江」と記されている。「江」という名は、生地の近江にちなんだものであろう。
生まれて間もなく、小谷城は落城、父長政は滅亡した。その後、母や姉たちとともに織田家に引き取られ、のちお市が柴田勝家に嫁いだため越前北の庄城に移り住んだ。その後、本能寺の変で織田信長が死去、ついで賤ヶ岳の戦いで義父柴田勝家が豊臣秀吉に敗れて北の庄城は落城、母お市は勝家とともに自害して果てた。
その後、「江」らは豊臣秀吉に引き取られ、秀吉の側室となっていた京極竜子に養育されたようだ。竜子は浅井久政の娘と京極高吉の間に生まれた女性で、姉妹にとっては従姉妹にあたる女性であった。「江」たち浅井三姉妹は秀吉に引き取られたとはいえ、信長の姪という生まれは、秀吉にとって格好の政略の道具となった。
政略結婚に翻弄される
天正十二年、十二歳の初は秀吉の意向により尾張知多郡大野領主佐治一成のもとへ嫁いだ。一成の母は織田信長の妹
お犬で、江とは従兄弟同士の関係*であった。
しかし、小牧・長久手の戦いにおいて一成は徳川家康・織田信雄に味方したため追放され、「江」は秀吉のもとに戻った。一成との結婚は、婚約のみで実際に嫁いでなかったとする説もある。
二度目の結婚は文禄元年(1592)、相手は秀吉の養子豊臣秀勝で、娘の完子が生まれる。秀勝は九州征伐、小田原合戦に従軍し、家康旧領の甲斐・信濃を与えられた。文禄元年(1592年)に秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、在陣中の同年9月に巨済島において病死した。娘の完子は秀忠に嫁いだとき、茶々の養女となり摂政関白家である九条家に嫁いだ。
三度目は徳川家康の子で二代将軍となった徳川秀忠に再々嫁した。文禄四年(1595年)のことで、秀忠の正室(継室)となった。秀忠との仲は睦まじかったようで千姫を頭に徳川家光・徳川忠長など二男五女をもうけた。徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、後にも先にも崇源院だけである。生まれてすぐに父長政を亡くし、ついで叔父信長、母お市などの親族の死、政略結婚や母の実家織田家の跡継ぎ争いに巻き込まれるなど波乱の連続であったが、秀忠と結ばれたのちは将軍御台所・将軍生母として安定した人生を過ごした。寛永三年(1626)九月十五日死去、享年五十四歳。法名は崇源院殿昌誉和興仁清大禅尼、墓所は徳川家の菩提寺芝の増上寺にある。
さて、「江」の長女千姫は豊臣秀頼に嫁いだが、豊臣家滅亡後は本多忠刻に再嫁した。次女珠姫は加賀藩第2代藩主前田利常に嫁ぎ、第3代藩主前田光高を生んだ。三女勝姫は福井藩主・松平忠直、四女初姫は京極忠高に嫁いだ。長男家光は第三代将軍となり、二男の忠長は駿府藩主となったがのちに改易、切腹処分となった。末娘の和子は後水尾天皇女御として入内、第109代明正天皇を生んだ。「江」を通じて浅井氏の血脈は、華麗なエスタブリッシュメントへと紡がれたといえよう。
………
崇源院像
東京大学史料編纂所データベース
「史料編纂所所蔵肖像画模本DB」から転載
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一説に、一成は信方の弟で、幼い信方の子に代わって家督を継いだとする。最近ではそちらの説が受け入れられつつあるようだ。
・茶々 (淀殿・淀君)
・初 (常高院)
・江 (小督・崇源院)
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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