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浅井三姉妹−茶々
秀吉の側室として秀頼をもうけ、大坂城に君臨する   


 永禄十年(1567)、浅井長政とお市の長女として小谷城に生まれた。兄弟に関しては諸説があるが、確かなところでは兄に万福丸、妹に初(常高院)と江(崇源院)、異母弟に万菊丸がいた。
 元亀元年(1570)、父の長政が母の兄織田信長と対立関係となり、以後、浅井氏は織田信長との合戦状態が続いた。天正元年(1573)八月、小谷城が落城、父長政・祖父久政は自害、捕えられた祖母井口氏・兄の万福丸らは殺害された。落城の前に城を脱出した母市と茶々ら三姉妹は織田家に引き取られ、のちにお市が柴田勝家に嫁いだため越前北の庄城に移り住んだ。ところが、本能寺の変で織田信長が殺害され、続く賤ヶ岳の戦いで義父柴田勝家が豊臣秀吉に敗れて北の庄城は落城、母お市は勝家とともに自害して果てた。
 「茶々」ら浅井三姉妹は豊臣秀吉に引き取られ、叔父の織田長益の庇護を受けたようだ。やがて、伯母の京極マリアを頼って聚楽第に移り住み、秀吉の側室となっていた京極竜子に養育されたようだ。竜子はマリアの娘で、姉妹にとっては従姉妹にあたる女性であった。
出生年に関しては永禄十二年とするものもある。


乱世に翻弄される

 浅井三姉妹は秀吉に引き取られたとはいえ、信長の姪という生まれは、秀吉にとって格好の政略の道具となった。天正十二年(1584)末の妹江が尾張大野の領主佐治一成に嫁ぎ、その三年後の天正十五年にはもう一人の妹初が従兄弟にあたる京極高次に嫁いだ。長女の茶々に縁談がなかったのは、お市に憧れていた秀吉が三姉妹のうちでもっともお市の面影を受け継いでいた茶々を手放さなかったためという。そして、天正十六年ごろ、茶々は秀吉の側室に迎えられた。
 茶々にとって秀吉は小谷城攻めで織田軍の先陣をつとめ、落城ののち兄万福丸を串刺しにして処刑した。さらに、信長死後は養父柴田勝家、母お市の命を奪い去った憎い人物であった。寄る辺のない身の上とはいえ、憎い敵の側室になることは茶々にとってまことに我慢のならないものではなかったか。しかし、翌天正十七年に茶々は懐妊、喜んだ秀吉は淀城を築き、そこで秀吉待望の男子鶴松を生んだ。以後、茶々は「淀のもの」「淀の女房」と呼ばれるようになり、「淀殿」「淀君」という呼称がうまれた。鶴松を産んだ淀君は、高野山に父母の肖像画をおさめ、父母たちの菩提を弔うため京に養源院を建立した。
 しかし、天正十九年鶴松はわずか三歳で夭逝、落胆した秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、みすからは太閤と称するようになった。さらに、鶴松の死を忘れようとしたのか秀吉は朝鮮出兵を思い立ち、その指揮所として肥前国に名護屋城を築いて移り住んだ。そのような最中に淀君はふたたび懐妊、文禄二年(1593)八月、大坂城で男子を出生した。秀吉は男子に「拾」と名づけると、みずからの居城としていた京の伏見城に淀君とともに移し住まわせた。
 あきらめていた男子を授かった秀吉は、先に関白職を秀次に譲ったことを後悔するようになり、次第に秀次を疎むようになった。ついに文禄四年、秀次に謀反の嫌疑をかけると高野山に追放、自害においこんだ。さらに、秀次の一族・妻妾・子供たちを京の三条河原で処刑、秀次の重臣たちも粛清された。我が子可愛さとはいえ、秀吉の行為は常軌を逸したものというしかない。このころより、秀吉にはかつての英邁さが失せ、耄碌がみられるようになっていった。
 ともあれ、淀君の生んだ拾は豊臣家の世継となり、慶長二年(1597)、わずか四歳で元服して秀頼と名乗り左近衛少将に叙任された。そして、翌慶長三年八月、秀吉は伏見城で波乱の生涯を閉じた。享年六十四歳であった。翌四年、秀吉の遺言によって淀君と秀頼は大坂城に移った。以後、淀君は秀頼の後見をつとめ、実質的な大坂城主として振る舞った。
………
淀君像
東京大学史料編纂所データベース 「史料編纂所所蔵肖像画模本DB」から転載



家康との対立

 秀吉死後の豊臣家は徳川家康を筆頭とする五大老と石田三成を筆頭とする五奉行で運営された。やがて、徳川家康と石田三成の対立が顕在化、それに豊臣家の文治派と武断派の抗争が相俟って情勢は予断を許さないものがあった。構図としては、豊臣家に取って代わって天下人になろうとする家康、それを豊臣家の天下を守ろうとする石田三成が弾劾、排斥しようとしたようにみえる。淀君には表立った行動はみられないが、心情的には三成に近かったのではなかろうか。
 慶長五年(1600)、関が原の合戦が起こり、石田三成が率いた西軍の敗北となった。捕えられた三成は処刑され、三成に加担した大名たちは改易あるいは減封処分をうけ、豊臣家も直轄領を大幅に削減された。この時点では、いまだ幼い豊臣秀頼が天下人と認識されていた。しかし、慶長八年、徳川家康が征夷大将軍に任じられたことで、実質的に徳川家が豊臣家を凌ぐ立場となった。さらに慶長十年、家康は将軍職を嫡男の秀忠に譲り、将軍職は徳川家が世襲することを天下に示した。ここに至って、豊臣家は天下人の座から滑り落ち、徳川政権下の一大名に過ぎない存在となったといえよう。
 家康は秀頼に対して臣従を求め、上洛を要求してきた。また、茶々の妹江と秀忠との間に生まれた孫娘千姫を秀頼の 嫁にするなど、豊臣家との宥和姿勢を見せていた。これに対して淀君はあくまで豊臣家は徳川家の主筋であるとの 姿勢を崩さず、家康の上洛要求を拒絶した。慶長十六年、上洛した家康は秀頼への対面を求めた。淀君はこれも 拒もうとしたが周囲の説得で秀頼と家康の対面が実現した。この会見で立派に育った秀頼を見た家康は、徳川家にとって 最大の敵は豊臣家であることを実感した。しかも、いまだ豊臣家は徳川家の支配下には入っておらず、西国には 加藤清正・福島正則など豊臣恩顧の大名たちも健在であった。さらに二代将軍となった秀忠も豊臣家を別格の存在と 意識していたようで、すでに老境にある家康はみずからの目の黒いうちに豊臣家をなんとか屈服させる方法を画策 するようになった。
 淀君をはじめとした豊臣方がみずからのおかれた情勢を判断し、思いきって豊臣恩顧の大名に檄を飛ばして家康と 対立してふたたび豊臣政権を打ち立てる、それが無理なら家康に屈服して大坂を明け渡し徳川政権下の有力大名として生き残る、そのいずれかを選択すれば豊臣家のその後は大きく変わったことだろう。
 しかし、豊臣家は徳川家の主筋であるとの虚勢をみせるばかりで、的確な対応をとることはできなかった。 さらに清正ら豊臣家恩顧の大名たちが世を去るなど、時間が経過するほどに孤立を深めていった。そして、慶長十九年、 方広寺の銘文事件が起こり、事態は豊臣家と徳川家の武力衝突へと推移した。同年十一月、家康は大坂攻めを開始した。 いわゆる冬の陣であり、大坂城を攻めあぐねた家康は和睦にもちこむと大坂城の堀を埋め立て、大坂城最大の防衛力を奪い去った。そして、翌慶長二十年、夏の陣が起こって豊臣家は滅亡した。落城に際して淀君は秀頼とともに自害し、波乱の生涯に幕を閉じた。
 浅井長政の娘に生まれ、幼いころに父長政をはじめとした一族を失い、伯父織田信長の死、養父柴田勝家と母お市の死、そして憎い豊臣秀吉との間に子をなし、関が原の合戦後は徳川家康と対立、ついに豊臣家とともに滅亡した。その一生は戦国時代の終末期と重なり、織田から豊臣、そして徳川へと流動する時代を生ききった女性といえそうだ。
写真:大坂城の淀君・秀頼ら自刃の地址

・茶々 (淀殿・淀君) ・初 (常高院) ・江 (小督・崇源院)
  



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