龍造寺家は肥前守護少弐氏の被官。この家中興の祖にして曾祖父の龍造寺家兼が「仏に帰せしむなら高僧になる」と生まれたときに言わせしめたのがこの隆信である。七歳のとき仏門に入り、修行に励んだ。
しかし少弐一族の馬場頼周の陰謀により龍造寺一族のほとんどが討たれるに及び、家兼の「還俗すれば、必ず龍造寺の家を興す人物になるであろう」という遺言により還俗。龍造寺家の家督を継ぎ、本家当主の死により本家と分家が一本化した龍造寺家は鍋島家と大内義隆の支援を得て復活した。
しかし、大内義隆が陶晴賢の謀叛によって倒れると、少弐氏が佐嘉城を包囲。隆信は落ち延び雌伏のときを過ごす事となった。ニ年後、少弐一族を滅ぼし、北九州進出ももくろむ毛利氏と結んで反大友の兵を挙げた。
これに対し、大友宗麟は総力を結集して佐嘉城を包囲したが、毛利の筑前出兵によって撤退を余儀なくされた。しかしそれも束の間、大友は再び佐嘉城を包囲する。 龍造寺氏と九州の最大勢力である大友氏との戦力の差は隔絶しており、またたくく間に大友氏は龍造寺氏居城佐嘉城を包囲した。
龍造寺隆信の台頭
この窮地に際して龍造寺氏の重臣鍋島直茂は乾坤一擲に奇襲作戦を提案した。すなわち、勝ちに奢った大友氏に対して夜襲をかける、というものであった。しかし、諸将は戦い疲れており誰もこの作戦に賛成する者はいなかった。ところが、隆信とこの軍議に参加していた隆信の母の賛成により作戦は決行に決まった。
かくして直茂は敵の本陣・今山を奇襲し、総大将・大友親貞を討ち取る大功を立てた。この奇襲の成功により勢いを盛り返した龍造寺軍に対し大友軍は後退に転じることとなった。そして、その後十年にして龍造寺隆信は五州二島の太守にまで昇りつめるのである。
龍造寺隆信は「肥前の熊」と称されるほど武勇に優れた武将であった。しかし、隆信は武勇・知略には長けていたものの、残忍な性格も併せ持ち、新参の武将のなかには彼に心服していない者も少なくなかった。
■写真:佐賀城祉
天正九年(1581)、北進を目指す島津氏は肥後の相良氏を降し、肥後に勢力を伸ばしてきた。これをみた肥前島原領主の有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じた。これを知った隆信は、自ら三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指した。有馬晴信は島津家に援軍要請を出した。
晴信からの援軍要請を受けた島津家中では、地理不案内の島原への派遣に対し否定的な意見を出す家臣が多かった。しかし、島津義久は「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」といい、島原への派兵を決定。派遣軍の総大将には末弟で、島津家一の戦上手といわれた島津家久が選ばれ、脇将として島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭三千が有馬氏救援に派遣された。
沖田畷の敗戦
そして、天正十ニ年(1584)、島津・有馬連合軍六千の兵と龍造寺氏の大軍が、沖田畷で対峙した。沖田畷の地は大軍を展開することが困難な場所で、寡勢をもって龍造寺軍を迎え撃つのに絶好の地として家久が予定戦場とした地でもあった。
沖田畷付近で龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇、龍造寺軍は島津軍が小勢なのを侮り、物見も出さずに攻めかかった。策を秘めた島津軍は、たいした抵抗もせず、ずるずると後退し、勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め立てようと沖田畷の畦道をひた進んだ。
家久は龍造寺軍が十分射程に入ったのを確認すると、一斉に銃弾を撃ちんだ。思わぬ銃弾の飛来に龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と続いてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱に陥いった。
龍造寺軍の混乱ぶりを見きわめて、島津軍は一斉に抜刀し、三方から龍造寺軍に攻めかかった。隆信は、進展を見せない合戦に苛立ち、自らが前線に立ち指揮を取ろうとした。この時、島津家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が隆信に命中、龍造寺隆信は呆気無く五十六才の生涯を閉じた。一方、寡勢をもって、勢いにのる龍造寺氏の大軍を撃ち破り大将まで討ち取った、島津家久の作戦による大勝利であった。これで島津氏にとって九州制覇への道が 大きく開けたのである。
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