天文四年(1535)、島津貴久の次男として、鹿児島伊作城に誕生した。兄に義久、弟に歳久・家久がいた。いぜれも傑出した人物揃いで、四兄弟一致協力して島津氏の勢力拡大に尽くした。親子兄弟の不和や内訌の多い戦国時代で、珍しいことといえよう。
義弘は四兄弟のなかにあって、とりわけその勇猛ぶりが喧伝されている武将である。その勇将義弘の生涯はその自記「惟新公御日記」に「少之時より身を弓箭の事に委ね、命を危難の間に奉じ、数十年の中、昼夜を舎かずして」と記しているように、戦いの明け暮れであった。そして、その戦いにおいて義弘は常に四兄弟の「弾頭」的活躍を示して、島津氏の武威を世に鳴らしたのである。
義弘の初陣は、天文二十三年(1554)二十歳のときであった。この年、島津氏は三州統一の障りとなっていた、薩摩・大隅の国境に近い岩剣城を攻めた。祁答院良重の守るこの岩剣城攻略は、いわゆる大隅合戦の初戦であり、また、島津氏が初めて鉄砲を実戦に用いた戦いでもあった。義弘は兄義久、弟歳久らとともに参戦したのである。
弘治三年(1557)義弘は初めて敵の首をとった。それは、祁答院良重らに一味して島津氏に叛いた蒲生範清の本城蒲生城を攻めた戦いで、義弘は三尺の剣を振るい蒲生本城へ斬り込んで、一騎討ちを制したのである。このとき、自ら鎧の五ケ所に矢を受けて重傷を負ったほどの決死の勇戦であった。
一軍の将としての義弘の采配も剛勇そのもので、守護島津氏を戦国大名にする転機となった木崎原の合戦における義弘の用兵がそうだった。
永禄十一年(1568)日向国西南部の真幸院をめぐって日向の伊東氏と島津氏は対立した。義弘は真幸院の中心である加久藤城・飯野城を手に入れ、ここに拠った。これに対して伊東氏は三之山を手に入れ、加久藤・飯野進出を狙って島津軍と対峙した。
勇将、島津義弘
永禄十一年八月、伊東氏は大軍を三之山に集め、飯野桶ケ平に陣した。元亀二年(1571)には、数度の小競り合いがあったが、翌三年五月、伊東軍は加久藤城を目指し三之山を進発した。その軍勢は伊東加賀守以下三千といわれる。一方、飯野城を守る島津義弘軍は三百であったという。伊東軍は飯野城を北に見て白鳥山麓を通り加久藤城下に押し寄せた。初戦の勝利と、小勢の島津軍をあなどり、油断している隙を島津軍に不意を討たれ大敗を喫した。世に「木崎原の合戦」と呼ばれる戦いで、南九州の桶狭間とも称される戦いであった。以後、伊東氏は勢力を失い、ついには大友氏を頼って豊後に落ち、日向は島津氏が支配するに至った。
この事態を重くみた大友宗麟は、天正六年(1578)四月、日向へ攻め入り、土持氏を蹴散らし耳川以北の北日向を制圧した。大友勢四万三千を率いた田原紹忍は、陸路を南下した。先鋒の佐伯宗天・田北鎮周は十月に、島津家・山田有信が守る高城を攻撃した。しかし、救援に駆け付けた島津家久率いる三千の兵を高城に入れてしまうという失態を犯した。しかし、大友軍の総大将である田原紹忍は、島津勢を少勢と侮り、小丸川を渡河。十一月十二日、高城を中心として、島津と大友の両軍が激突。
数におごる大友勢に対して、島津軍は正面から島津義弘、側面から島津義久、さらに高城から島津家久が大友に攻撃を行った。三面から攻撃を受けた大友軍は、支え切ることができず壊滅的な打撃を受け敗走。逃げる大友軍を追撃する島津勢には「耳川」で大友軍を捕捉し、大友方の討たれる者、溺死する者は数知れず、戦死者は四千余りとなった。まさに、島津軍の大勝利となった。
天正十三年(1585)、男子のいない兄義久から家督を継ぎ、義弘は十七代当主となった。以後、豊前、豊後に勢力を維持していた大友氏を制し、さらに肥後・筑後・筑前に領土を広げつつある「肥前の熊」竜造寺隆信を島原で討ち取るという大勝利を得た。かくして、島津氏の九州統一は大きく前進し、天正十五年(1587)には、大友氏の府内(大分市)を占領した。宗麟は、上洛して、豊臣秀吉に援軍を求めた。そして、これが秀吉の九州征伐の引金となったのである。
*島津義弘は、本当に家督を継いだのか?。
島津義弘は家督を継がなかったとする説があります。戦国後期の島津氏は義久を惣領として、四兄弟、一族、家臣団が結束、九州統一目前まで勢力を拡大しました。ところが、島津義久は大友攻めのツメの段階でにわかに優柔不断な様子を見せるようになり、島津軍の軍事面をになう立場にある義弘と職掌分担をしたようです。また、秀吉への服従後、それを潔よしとせず弟の義弘を前面に立てたようでもあります。また、秀吉に降伏したのちの島津氏の場合、領内を義久、外面的なところは義弘というように二頭政治を行っているように見えます。おそらく、その背後には秀吉の島津氏分断策があったものと思われます。
一方、男子がなかった義久は義弘の子家久を養子とし、義弘が家久を後見して島津氏の舵取りをしていたようです。とはいえ、関ヶ原の合戦における義弘の窮地は、国元にいる兄義久、子の家久が義弘に対して積極的な支援をしなかった結果とする説もあり、義弘が島津氏の惣領とよべる存在でもなかった。そして、関ヶ原の時点では、義久・義弘・家久の三頭体制にあったようです。
これらのことを踏まえて播磨屋では、島津氏の秀吉屈服後の実質的な当主は義弘と考え、一部の書籍などにあるように義弘は家督を相続したものと解しています。とはいうものの、「本当にそうだったのか」と正されると「いささか疑問あり」というところかと思っています。
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豊臣軍との戦い
秀吉は中国の毛利氏へ九州島津征伐への進軍を命令。毛利軍は四万で筑前方面へ進出した。一方、四国勢にも天正十四年(1586)十月、秀吉から豊後出陣の命が発せられた。島津軍と四国勢との決戦の場は豊後戸次川の河原であった。
豊臣方は淡路勢を先陣に第二陣の讃岐勢と信親の土佐勢先手、元親の土佐勢主力という陣容で大野川を越えた。豊臣方は島津勢の前哨部隊を蹴散らして鶴賀城を目指した。
これに対し、島津家久は急追する淡路勢を見て、反撃のノロシを上げさせた。最初に崩れたのは淡路勢だった。兵力三千ほどの新納隊は、淡路勢に正面から激突しほとんど瞬持にして粉砕し、秀久を遁走させた。しかし、新納隊がつぎに交戦した土佐勢先手は、信親の指揮で頑強に抵抗した。新納隊は猛反撃に押し返され、一進一退の乱戦となった。これに東に向かっている讃岐勢が方向を転じ、土佐勢の主力も加われば、新納隊は優勢な敵の集中攻撃を浴びることになるはずだった。
しかし、そこへ伊集院隊が押し寄せ、土佐勢を前後に分断した。さらに山間を迂回した本庄勢が讃岐勢を側撃した。こうして島津方に包囲された豊臣方は、壊滅的な敗戦を蒙った。島津氏はこの合戦に島津氏は勝利したものの、その後の豊臣勢との戦いは敗戦続きとなり、結局、島津氏は軍を薩摩に戻し、豊臣秀吉に降るに至った。次弟歳久は一人抵抗してのちに切腹させられ、末弟家久も急死。豊臣秀長による毒殺との説もある。
結局、長兄義久は薩摩、義弘には大隈と日向が安堵され、改めて五十六万石に封じられてのである。
「鬼石曼子」、そして関ヶ原の戦い
秀吉の朝鮮出兵に際しては、嫡子の久保とともに一万の兵を率いて出陣。南原城、泗川城などで戦った。なかでも、泗川城の戦いでは、明の大将薫一元率いる二十万の大軍を島津軍一手で引き受け、鉄砲を有効に活用、二十倍の明軍を打ち破り、晋州川まで追撃して、敵兵の首三万八千余をあげる記録的な勝利を得た。以後、明軍に「鬼石曼子」と恐れられた。
慶長三年(1598)、八月十六日、秀吉が伏見で死に、朝鮮部隊が次々と引き上げることになった、義弘は殿軍をつとめて、挑戦の名将李舜臣が率いる朝鮮水軍と戦ってこれを打ち破り、無事、帰国することができた。
慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦では、島津義弘はは西軍側にいた。この経緯について、『寛政重修諸家譜』には、「会津の上杉景勝を討つため徳川家康が東上したとき、徳川氏の伏見城を義弘に預けて守らせる約束をしたのに、なぜか家康からその連絡が来なかった。その後、大坂城に在ったが、石田三成が徳川家康を討つとして、義弘を味方に誘った。義弘は返事をしなかったが、再三の五奉行からの要請により、やむを得ず説得に折れた」とある。
関ヶ原の役に際して、西軍大将石田三成に、再三提案した義弘の奇襲あるいは夜襲作戦を、悉く取り上げられなかった。そして、合戦当日、島津隊は、石田三成の本陣のある笹尾山の山麓から、北国街道をへだてて陣を敷いた。辰の刻、霧が晴れると、東西両軍先鋒から起きた鉄砲の発射音を合図に先端が開かれた。
戦いは、初め西軍優勢で推移したものの、小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保ら西軍諸将の裏切り、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親などの傍観によって、た未の刻(午後二時)をすぎたころであり、三成の本隊をはじめ、西軍のほとんどが崩れ、ついには島津軍のみが敵中に取り残されるカタチとなった。
これに対し、徳川方からは本多忠勝が島津軍に襲いかかり、義弘は家康の首を取るか討ち死にするまで戦おうとしたが、甥の豊久が諌め、本多忠勝、井伊直政、松平忠吉など徳川麾下の軍勢を強行突破。伊勢蕗を目指して南下、世に名高い「島津の退き口」である。悪戦苦闘、豊久は討死にし、主従わずかに八十人となり、伊賀を抜け泉州堺に向かい、来合わせた薩摩の船で帰国することができた。
薩摩に帰りついた義弘は、十月、隠居。兄竜伯と相談の上、家督を子の家久に譲り、維新と号した。そして、桜島に蟄居し、家康の赦免を待つ身となった。家康は一時、島津征伐を考えたようだが、九州の南端の地であり、島津氏の兵の強悍さ、豊臣氏がいまだ大坂城にあることなどもあって、結局、西軍にあった大名として唯一の領国安堵とした。
義弘は茶の湯を愛し、千利休の弟子でもあった。著作に「維新公御自記」。神仏崇拝に篤く、高野山に朝鮮の役の
両軍戦没供養を行っている。まさに文武両道の武将であった。一生を戦塵のなかにおいた義弘は、元和五年(1619)七月
二十一日、大隈加治木で病死した。享年八十五歳。
・関ヶ原合戦図に見える島津氏の軍旗
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