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武蔵遠山氏 ●ダイジェスト
丸に二つ引き両
(利仁流藤原氏加藤氏族)
*右の紋は『見聞諸家紋』にみえる遠山氏の家紋。


 戦国時代、後北条氏に仕えて活躍した遠山氏がいた。早雲からの家臣の代表として遠山直景が有名だ。がんらい美濃国遠山荘にいた加藤次景廉の後裔で、明智左衛門尉景保、その子紀伊守直景が北条早雲に属したものである。直景は将軍足利義稙の家臣であった。
 文治元年(1185)、源頼朝は加藤次景廉をもって、遠山庄の地頭に補し、景廉の嫡男景朝はここに住して、遠山を姓とし領主となり岩村城を築いてその本拠としたのである。以後、遠山氏は恵那郡全体に繁栄して一大豪族となり、土岐郡の守護となった土岐氏とその勢力を競うようになった。
 土岐氏はやがて西美濃に移住したので、遠山氏の勢力は土岐郡にも及び、その領土を拡張した。しかし、土岐氏が守護大名として発展し、美濃国に君臨するよになると、遠山氏はその被官的立場となり、南北争乱の頃は両派に分かれ、一部は土岐氏に従って中央に奉公した。『見聞諸家紋』には、遠山氏の家紋として「九字に二つ引両」がみえている。これは中央に奉公した遠山氏のものであろう。
 義稙は延徳二年(1490)から明応二年(1493)まで将軍職にあった。京都北野天満宮の日記『北野社家日記『によれば、延徳三年(1491)当時、早雲が申次衆を務めており、遠山直景とは幕府内部で知り合ったのであろう。おそらく、細川政基の計画した政変に早雲とともに直景も参画したようである。

後北条氏の重臣に列す

 直景ははじめ四郎左衛門を名乗っていたが、早雲に仕えてからは官途名を隼人佐、受領名は加賀守、のちに丹波守を称している。永正三年(1506)正月、相模西郡の松田郷延命寺に「遠山隼人佐直景」と署名して寺領を寄進している。直景の初見文書で、その花押は早雲のものと似ている。この年には、早雲によって小田原城周辺に検地が施行され、この寺領寄進もその結果であろう。
 大永二年(1522)九月に氏綱は、朱印状でもって相模西郡大井郷の大井宮の神社規定を定めているが、その奏者に直景が登場している。翌三年三月の伊勢家朱印状では虎朱印の下に「奏者遠山(花押)」と花押を据えているが、これも早雲もしくは氏綱のものとまったくそっくりである。直景がいかに早雲からの信頼を得ていたかが知られる。翌四年(1524)正月に氏綱は、江戸城に籠った上杉朝興を攻略して直景を城代に命じている。
 江戸城代となった直景は、その四月、古河公方足利高基に起請文を掲げて、北条氏が古河公方に対して味方であることを神掛けて誓っている。直景は北条氏を代表して古河公方に起請文を出す立場にいたのであり、北条家一門と同列の家格を認められていたのである。
 同年十一月に氏綱は、越後の守護代長尾為景に書状を出し、関東管領上杉憲房および甲斐の武田信虎と和睦したことを通達したこと、および、その後上杉方の長尾憲長や藤田業繁等が北条方に和睦を求めてきたので直景と秩父次郎が使者をなったことが知られる。この書状を越後に届けたのも直景であった。
 直景は天文二年(1533)三月に死去し、菩提寺の延命寺に葬られた。
 直景の跡は綱景が継いだ。綱景の名は八菅山の天文十年再興棟札に「大檀那遠山甲斐守綱景」と見えており、藤原姓を称していたことが分かる。その後は隼人佐−政景−直景−犬千代と六代にわたって江戸城代遠山氏は続いたとされている。
 江戸期の旗本遠山氏は、小田原北条氏家臣の系譜をひくものが多い。筑前守景宗の子景政が、慶長七年から橘樹郡有馬村・馬絹村を領し、万治三年に景忠へ分知している。左衛門尉直次の孫景綱が寛永十年から加増により都築郡本郷村・新羽村の各一部を領した。また、三郎右衛門景次系景重の養子景則が、寛文五年から橘樹郡の一部を領したことなどが、「寛政譜」に見ることができる。

●遠山氏の家紋─考察

■ 武蔵遠山氏 ■ 岩村遠山氏 ■ 江儀遠山氏


■参考略系図

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