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三吉氏
吉字に二つ星
(藤原氏後裔)
*別に「吉字に二つ輪」とも称される。


 三吉氏は藤原鎌足の後裔藤原兼範が近江から備後国三吉に下向し、その子兼宗が三吉大夫を称したのにはじまるという。早くから、比叡尾山城に拠っていた。『見聞諸家紋』をみると三吉氏の家紋として「吉の字に二つ輪(星?)」が載せられている。室町中期には、国人として勢力をもていたことが知られる。
 元弘年中(1331−33)、三吉氏は宮方に属し、のちに足利直冬に従ったが、子孫は山名氏、大内氏に従った。政高のとき、大内義興に擁せられた足利義稙の上洛に従った。ついで、永正十三年(1516)宍戸元源とともに毛利興元に属した長野城を攻めたが、かえって興元のため政高の属城志和地の八幡山城や元源の五龍城が攻められた。
 戦国時代は備後の国人領主として、大内氏に属していた。三吉隆亮は三次盆地東方の比叡尾山城を拠点に三次地方を領し、毛利氏と同盟・交戦を繰り返したが、天文二十二年(1553)、父致高とともに元就.隆元父子と参会して忠勤を勤める起誓文を提出し、以後毛利氏に属した。
 隆亮のとき、その所領は八万石に及んだといい、備後における強力な大名であった。一族の三吉某の息女(隆亮妹とするものもある)は元就の側室。
 永禄二年(1559)備中、同五年には石見に出陣するが、元就死去後の元亀四年(1573)、嫡子広高とともに、元就・隆元以来の盟約を確認する起誓文を輝元と交換するなど、なお自律的な性格を有していた。隆亮は天正十六年に死去。
 嫡子広高は、始め大内氏に属し度々尼子氏と戦った。のち父とともに毛利氏に属した。広高は天正十九年(1591)、比熊山城を築きそこに移った。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに出陣したが、敗戦後、毛利氏の防長移封により比熊山城は廃城となり広高は浪人し京都に上った。
 その後、広島藩主となった浅野氏に従って三次三勝寺に宿泊したとき、落ちぶれた旧主の姿を見て泣かぬ者はなかったという。そして同情のあまり土産物を持ってきた百姓達が寺内にあふれた。広高の治政よろしきであったことをしのばせる。これを見て浅野氏も同情し、二百石を給して老後の扶持としたという。広高は、寛永十一年に没した。



■参考略系図
  


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