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江北−戦国前史
浅井氏登場前後の江北の歴史をたどる
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浅井氏が起こった近江国は鎌倉時代に入り佐々木氏が近江守護職に任じられ、浅井郡を含む江北は佐々木一族の京極家が支配するところとなった。京極氏を江北の守護職であったとするものもあるが、近江守護職は観音寺城に拠った嫡流の佐々木六角氏が任じられた。とはいえ、南北朝時代の京極道誉(高氏)、応仁の乱に活躍した京極持清が近江守護職に任じられたこともあった。
室町時代、浅井氏は今村・河毛・安養寺氏らの江北諸武士とともに京極氏の根本被官の一人に数えられる存在であった。
根本被官というのは、京極氏が江北に入部して以来の譜代家臣のことで、『江北記』によれば「根本当方被官之事」
として今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井・小野・二階堂の十二名が記されている。そのほか、
京極六人衆として、多賀・大津・若宮・黒田・加賀・隠岐ら諸氏の名が知られる。そして、かれらが京極氏を頂点とした
江北武士の実力者たちであった。
●江北記に記された京極氏被官
根本東方被官之事。
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今井。 河毛。 今村。 赤尾。 堀。 安養寺。 三田村。
弓削。 浅井。 小野八郎。 河瀬九郎。 二階堂。
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一乱初刻御被官参人衆事。
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井口越前 三条殿。
浅見 朝日殿。 弓削式部
伊吹弾正 細河殿。 渡辺。
平田 但一乱以前。
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近年御被官参入衆事。
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東蔵 畠山殿。文亀二年より。
狩野 おくら。明応八年より。
今井越前。
今井十郎 細河殿。
西野 六角殿。 布施備中
小足 京衆次御供使仕也。 高宮 京衆次。
隠岐殿 五郎義清の子孫也。当方御家子也。奉書判をえらるる也。御紋をもせらるる也。
一円殿 道誉御舎兄の流れ。御家の子御紋せらるる。
慶増 大原同名也。春極殿庶子。御家の子御紋せらるる。
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* 一乱とは文明二年(1470)の京極氏の内訌をさしている。それぞれの注に書かれる名前は、もとの主君である。
* 近年とあるのは注から明応八年(1499)より文亀二年(1501)の間をさしている。
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京極氏は持清の代に六角氏を凌ぐ勢いを示したが、持清の死後、家督争いが続いて衰退の度合いを深めていった。
持清の嫡男勝秀は若くして陣没したため、
孫の孫童子丸が家督を継ぎ、所領・所職を安堵され、出雲・隠岐・飛騨・近江の守護職に任じられた。しかし、京極氏家中では孫童子丸を後見する政経と多賀高忠派と、それに反対して弟の乙童子(持清末子ともいう、のち高清を名乗る)を擁立しようとする京極政光と多賀清直派に分裂、対立するようになった。ところが、文明三年、孫童子丸が早世、幕府は政経を京極氏家督にした。対して乙童子・政光派は西軍に走って内訌は泥沼化し、六角氏と結んだ政光が政経を圧迫していった。文明四年、政光が病没したのちは、高清と政経の間で抗争が繰り返された。文明十三年に至って政経と高清と講和がなり、政経は分国出雲に下っていった。
かくして高清体制が確立したかにみえたが、幕府は政経の子材宗を侍所頭人に任じ、多賀高忠を所司代にすえ、旧西軍勢力でもある京極高清の排斥に動いた。政経・材宗父子は足利義尚の六角征伐にも従軍、近江守護職にも返り咲いた。しかし、国人勢力の統制に失敗すると、幕府は高清を京極氏家督にして政経らを圧迫した。ところが、将軍義稙が明応の政変で失脚すると、政経は六角氏の支援をえて近江に復帰、対する高清は美濃守護代斎藤利国と結んでこれに対抗した。なんとも目まぐるしい事態の転変であり、あさましくも不毛な権力抗争であった。
●京極氏略系図
結局、抗争に疲れた政経はふたたび出雲に下り、近江に残った材宗が高清と抗争を続けたが、永正二年(1505)に高清と和睦、半世紀にわたった京極氏の内訌は終息した。それから三年後の永正五年、材宗は高清によって自殺に追い込まれて滅亡した。ここに京極氏は永年の内訌から解放されたかにみえたが、今度は高清の子高広(高延)と高慶(高佳、一説に材宗の二男ともいう)の間で家督をめぐる争いが表面化してきた。その背景には、台頭著しい国人領主らの思惑が絡んでいた。京極氏の内訌は、配下の国人領主たちの自立をうながし、みずからの足元を揺さぶる下剋上を醸成していたのであった。
やがて、上坂氏をはじめとした井口氏・浅見氏らの支援をえた高清は今井城を居城とし、高清の後ろ盾となった上坂氏が次第に発言力を強めてきた。これを面白く思わない江北の国人領主たちは、文亀元年(1501)、上坂氏を排斥しようとして今井城を攻撃した。高清らは六角氏に応援を頼んだため、国人衆らの敗戦となった。この戦いで国人衆の浅井直種・三田村定元らが戦死した。
今井合戦ののち内訌を克服した京極氏は上坂氏を執政として、つかの間の安定期を迎えるが、それも長く続くことはなかった。浅井直種の戦死後、浅井氏の中心人物として表舞台に現れるのが浅井三代の基礎を築いた備前守亮政である。
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