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出自と家系
謎だらけの浅井氏の出自   


 浅井氏の出自に関しては諸説があり、一般に「三条公綱落胤説」というものが流布している。これは、京の公家で正親町三条実雅の長子公綱が、嘉吉年間(1441-44)、勅勘を蒙って京極氏に預けられた。公綱は京極氏の所領のうち浅井郡丁野村に蟄居していたが、やがて土地の娘との間に男子をもうけた。その後、許しをえた公綱は京に帰っていったが、男子は丁野村に残り、成長してのち浅井重政を名乗り京極氏に仕えたというものだ。 そして、重政の曾孫に浅井氏三代の初代亮政が生まれたというのである。

系図 : 『群書類従』に収録された三条公綱落胤説のもの

江北の浅井名字

 浅井氏研究の泰斗である小和田哲男氏は、『公卿補任』に公綱が勅勘を蒙ったという記事がないこと、浅井氏は重政がはじめて名乗ったという点などから、公綱後裔説は浅井氏が本姓を藤原氏に結びつけるための作為であったと結論づけられている。
 実際、伊香郡余呉町にある源昌寺本尊薬師如来背銘に建保三年(1215)の銘があり、浅井氏の名が記されている。 また、寛喜三年(1231)の年号を持つ円満寺の古鐘銘にも浅井氏の名が見えることなどから、浅井氏は鎌倉時代より この地に勢力を持っていたことは疑いない。さらに、『竹生島縁起』には、平安時代の貞観十三年(871)に浅井盤稲、翌十四年に浅井広志根らの名が記されている。盤稲・広志根らが戦国浅井氏の先祖とは断定できないが、かれらは郡司クラスの豪族であったと思われ、その子孫が戦国領主に成長したとしても容易にうなづけるものである。
 浅井氏は京極氏の根本被官として戦国時代以前より江北に勢力を有していたことは疑いない。しかし、南北朝の争乱、 応仁の乱における京極氏の軍事行動のなかに、浅井氏の名はあらわれない。持清死後の内訌期にも、 浅井氏の名が出てくるのは今井合戦における浅井蔵人直種がはじめである。

戦国浅井氏

 『江北記』のなかに、「浅井蔵人、今の備前守親事なり」と記されている。今の備前守とは亮政のことで、亮政の父は浅井蔵人であったことが分かる。そして、浅井蔵人は『清水寺再興奉加帳』に見える浅井蔵人丞直種と同一人物といい、亮政の父は浅井直種であったと推定されている。さらに、『証如上人日記』の天文九年(1540)の記事に「浅井備前舅即惣領也」という記事があり、浅井備前こと亮政は娘婿となって惣領家を継いだことが知られる。
 浅井氏の庶流直種の子で、男子のなかった浅井惣領某の娘婿となって浅井氏宗家の家督を継承した人物であった。 亮政の妻は蔵屋といったが、父の名は明らかではない。ただ、明応十年(1501)に浅井直政という人物が本貫地である 丁野郷の土地を寄進していること、名乗りの「政」の字が浅井三代に共通であることなどから亮政の岳父は直政で あったと推定される。諸本ある浅井系図のうち比較的信頼がおけるという『東浅井郡誌』に掲載された系図をみると、 直政の叔父に直種がみえ、その二男として亮政が記されている。

系図 : 東浅井郡誌のもの


解けない謎

 浅井氏は滅亡したとはいえ、長政の娘たちは歴史に大きな足跡を残した。とくに、徳川秀忠の室となった江は 三代将軍家光の実母である。さらに娘和子は後水尾天皇の女御として入内百九代明正天皇を生んでいる。 浅井家の血脈は徳川将軍家と皇室へとつむがれたのである。徳川家系図、『寛政重修諸家譜』の武家系図集を例に 出すまでもなく、江戸時代初期において浅井氏の歴史を考証・調査し、通史を編むことは何故に 行なわれなかったのであろうか。時期的に家の歴史が全く失われてしまっていたとは思われないだけに、 まことに不思議なことというしかない。
 浅井三姉妹のなかでは江がもっとも栄達を遂げたが、江に関する確かな史料はわずかしか残されていないという。 将軍家光の母、明正天皇の祖母という存在でありながら、その経歴はまことに漠としたものなのである。 それは生家浅井氏の歴史の分かり難さと相俟って、歴史の大きな謎となっているのだ。


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